ゴマ

お行儀よく

Apr.12,2001

今更ではあるけれど、変な日本語が多くて耳障りだ。職場の若い女の子(と言っても30代前半で既婚)は「・・・と違ったり」と言うところを「・・・とちがかったり」と言う。「違うかったり」を縮めて言っているのだろうが、「違うかったり」という文法があるのか?「何気に」などはすっかり市民権を得ているようでもあるし、なるほど圧倒的多数が使っていれば、それが文化となるのかも知れない。「文法」などにこだわる方が、むしろ生きた言葉のリズムを損ねるのかも知れないが、こと日本語においてはまだ旧体制側にいる私の場合は、なるべく保守的な日本語を使うようにしている。馬鹿を言うのとこれとは別の問題だ。言葉が発生して伝播するうちにどんどん変化していったように、こんな風に言葉の文化は変遷して行くのかも知れない。ましてやインターネットや携帯の普及で、ますます言葉は縮められたり、簡単で響きの良いものに置き換えられていくのかも知れない。それを「嘆かわしい」と言っても始まらないのだ。

私にしたって、印象を軽くしようと雑な話し言葉で書く事も多い。仲間内での話し言葉は好んで乱暴な言葉遣いをするし、運転中に至ってはもはやチンピラである。勿論TPOによっては使い分けるのだが。そこはぬかりない。敬語もお世辞もスラスラと出て来る。(しかし、そう言うと不誠実な印象を与えるかも知れない。なるほど素人の口調が立て板に水では、どこか詐欺師っぽいのだ。しかし訥弁な詐欺師だったらどうするのか?!)本当は喋る仕事が向いているのかも知れない・・・と時々思う。

ある時期仕事上で厳しく訓練を要求された事で、気合を入れれば長時間よどみなく話せるようになった。(気合を入れ続けるから当然疲れるが。)これは才能ではない。訓練と気合(集中力かな?)次第である。つまり役者が台本をどれだけ声に出して読んだか、稽古したかという事と同様なのだ。きちんと数をこなすと、アレンジも比較的楽に出来るようになる。言葉の習得とはそういうものだ。日本語も外国語も。

繰り返し繰り返し口に出す事で、理屈や意味が完璧には解からずとも流暢には喋れるようにはなる。もともと口が達者だった幼児の私に、母は「勉強しろ」とは一度も言わなかった代わりに「国語の教科書を音読しなさい」とは口うるさく言っていた。「読書百編意自ずから通ず!」と、自分が父親から言われた事をそのまま私にも押し付けていたようだ。それは半分以上正しく、半分近くは間違ってもいたのだが(しっかり暗記してしまうほど音読した内容が、実は当時は全然違う意味だったりもしたもの)、脳に直接音を刻み込むようなこうかは確かにあると思う。だから私は、言葉の訓練は読み書きだけでなく兎に角繰り返し口に出す事を旨として、それを人にも勧めているのだ。

先日のIWGPの選手権を観ていて、闘った本人達よりも、先に出て来てマイク・パフォーマンスをした猪木の方がカッコ良かったのには驚いた。いや、嬉しかったと言うべきかな。やっぱり猪木は、私の永遠のヒーローだ。

もの凄くショックな事があった。昨夜、BBSで既に情報は得ていたのだが、鶴見の贔屓のキムチ屋がなくなったのだ。今日、慌てて見に行く。駅ビルの近食品街の店があった場所は空洞になっていて、ベンチなんか置かれていた。呆然として、隣の店のニイちゃんを捕まえて尋いてみたが、行方は判らないと言う。会社に戻って、駅ビルの管理事務所や営業部に電話して、ようやく連絡先が判った。早速電話してみたが、そこは製造元であり、小売りはしていないと言う。どこかに店は出していないのかと尋いても、一番近くても東戸塚のようだ。

もう、あの日本一美味しいと感じていたキムチは手に入らないのか?いつでも駅ビルの地下に行けばあると思うと、安心しきっていた。他にも幾らでもキムチ屋はあるし、今まで懇意にしていた韓国人のお店もあるのだが、残念ながらあのキムチを越えるものはなかった。あのキムチが私の生活から無縁となってしまうのか!?しかし今でも製造はしていて、どこかで誰かが食べているのだ。もの凄い嫉妬を感じる。もう鶴見の価値が半分になったような気がする。

ここまで書いたら、緊急事態発生。急いで出掛けて来た。良い内容と悪い内容とごちゃ混ぜの事態。数日で結果を出せると良いのだが。内容はまだ公表出来ないので辛い。神様がついていて下さる事を、心から願って・・・。幸い近くだったので、往復40分程で帰って来られた。これから更新する。急に夜中に出掛けたので、猫たちは驚いただろう。ちゃんとゴマは抗議のオシッコをしていた。ごめんね、みんな。


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