ルス

迫る黒い影

Mar.29,2003
不思議な夢を見た。あまりに疲れていて、夕飯の支度の前にベッドでうたた寝していた短い時間の事だ。例によって長いくだらない夢だから、他人の夢なんて興味ない人は読まなくてもいいです。でもちょっと特別な感慨があったので、自分の為に書き残しておこう。

私はラボにいて、季節は夏だった。足が火照って仕方ないので、家から持参した如雨露で足に水を掛けようと思ってエントランスを出た。エントランスを出た右手には、レンチを回す式の古い蛇口があるのだ。そこで水を汲んでいるうちに、ふとした思いつきで庭の植木に水をやりたいと思った。この数日雨も降らずカラカラに乾いていたから、大した植木がある訳じゃないけれど、きっと植物も喜ぶだろうし、見た目にも涼しげになるだろうという考えからだった。そして私は水撒きがとても好きなのだ。

家から持参したのは、あまり大きくない青いプラスチックの如雨露だ。それ程たくさん水が入るものではないのに、随分と長いこと色んな草花に水をかけていた。遂には隣の敷地にまで入り込んで、やはり乾いた地面でぐったり生えている草花に水を掛けてやっていた。そこはどうやら営林署らしい事が解かった。古い木造の平屋の建物だった。入り口の扉も、上部にガラスのはまった下部は板張りの昔よく店屋にあったような引き戸だ。中に人がいるのかどうか解からないけれど、勝手に敷地内に入り込んではまずかったかも知れないと思って、引き返す事にした。

来た道を戻るのだが、道という程の距離はないはずだ。直ぐ隣の敷地なのだから。しかし戻り道は、見覚えの無い場所だった。右手には墓場、左手には大きなお屋敷らしいが、高い板塀に囲まれていて中は見えない。道の先は山になっている。ここはどこなんだろう?私が水を汲んだ水道は、確かこの辺りにあったはずだ・・・と思う場所へ行くと、そこは確かに水汲み場になっていた。そして3方向に伸びる道の真ん中の、ちょっとした広場のようになっていた。次第に不安で一杯になる。ここはどこなのだろう?何が起きてしまったのだろう?

すると道の先から、ピンクの服を来た若い女の子が歩いて来た。この人に訊けば良いかも知れない。「すみません、ここは川崎の**ですよね?」と話し掛けたのだが、相手は表情を強張らせて「私は何も知らない。そこのお寺の坊主に聞くといい。」と教えてくれた。そこのお寺とは、墓場の奥にあるらしい。墓場へと入って行くと、坊さんらしき男がいた。山●慎吾に良く似た顔で、初老の狡猾そうな坊主だった。

私は今度はもっと具体的に質問して、知っているならばどうしても教えて欲しい、私は家に戻りたいだけなのだ・・・という事を必死で伝えた。ここに防●科研の●崎ラボがありましたよね?と断定的に言ってみると、山●慎吾は「それを口にしたら駄目だ。誰もその事は言わない事になっているんだ。」と言う。そしてあたかもその屋敷の中に、かつての●崎ラボの建物自体が隠されているとでも言わんばかりの思わせぶりな口調で「あの建物の中は、今では誰も入れないのだ。」と言いながら、人の背丈の2倍もあるような高い板塀をヒョイと乗り越えた。「あんたもこっちに入って来なさい。」と言う。実際の私はリウマチで走る事もままならないというのに、いとも軽々と向こう側に入れた。夢だからな。

辺りは夜の闇で、殆ど何も見えない。山●慎吾の坊主は、あの建物の入り口が見えるだろう。そこから出てきた女の子は、民間で唯一出入りを許されている記者だよ。あの子に接触する良い。」と言う。私は闇の中、塀際の一番隅っこで隠れていたのだが、そこにはその女の子(多分30前後の若さの女性だ)の車が停めてある。近くまで来ると、相手は私に気づいて驚いて息を呑んだように見えたが、何も言わずに車のトランクを開けた。車は3ドアのクーペだった。後ろはハッチバックになっている。彼女は黙ってその後部ドアを開けたのだが、私は暗黙の了解でそこに滑り込み、横になって身を隠した。

女性記者(面倒だから、以後はMと呼ぶ)は、黙って車を発進する。門を出て、一般道に入るまでには物凄く急な坂道がある。そこは谷間に出来たエリアだったのだ。そう・・・確かラボもそういう場所にあった・・・と思い出している。(現実とは全く違っている。実際のラボは埋立地にあるから平坦な場所にあるのだから。)普通の馬力の車では、この坂はとても上がれないだろうと思う程の急な坂だった。その車は赤い2シーターのクーペで、ただ走る為にだけ作ったような車だった。私もMもまだ一言も口を聞かない。

しばらく高速道路らしき道を走ってから、減速したので一般道に下りたのだろうと顔を少し上げて外を見ると、見覚えのあるような地名のネオンが、高いビルの上で光っていた。あそこから走った距離といい「ここは港●ニュータウンに違いない。」と確信した。そしてどんどん車は路地に入って行く。色んな小さな雑居ビルが車の直ぐ際にゴチャゴチャと見えるようになり、そのビルの外階段に何をするともなく座っている黒人の男や、窓からこちらを見ているラテン系の女の顔が見える。あちらからも見えているはずだし、どう考えてもトランクで寝ているのは不自然だ。「そろそろ起き上がらせて貰いますね・・・。」と私から初めて言葉を発した。街の様子はゴチャゴチャとしていて、映画『ブレードランナー』の街の雰囲気のようでもあった。

車はどんどん路地を入って行く。渋谷のスペイン坂が迷路を作っているような場所だった。そしてあるレストランの前まで来ると、そのままドアを開けて車で乗り入れて行った。メキシコ料理の店らしい。そしてそのまま車で別のドアから出て行くと、そこから先は秘密の下宿屋になっているらしかった。狭い階段も車で上がって行く。毎日こんな狭い階段を通っているというのに、車のボディには傷ひとつ付いていないのね・・・と言うと「車が好きなのよ。」とM。「私も車が好きだった・・・」と私は独り言のように言ってみた。

あるフロアで部屋の中に入るとそこは古い造りの洋室で、ピアノやソファがあって一見リビングのように見える。そこからベランダに一旦出ると、外ドアから入る仕組みの部屋が幾つか見えた。一番隅の茶色い木のドアがMの部屋らしかった。ベランダからは、造成地らしき名残が見える。切り崩した傾斜地、ここはニュータウンの一番奥にあるらしい。何となく見覚えのある土地の様子だったが、年月の経過が感じられて心が締め付けられるような寂しさを覚えていた。しかしまだ肝心な事は尋ねられない。逸る気持ちはあるが、ひどく慎重になっている。全てを口にしたら何かが損なわれるような不安もあった。

部屋に入ると、そこは玄関も何もなく、広いワンルームになっていた。ドアの直ぐ左手には大きなベッド。右手中程にも床にマットレスを敷いただけの更に大きなベッド。奥にはロータイプのソファもある。「一人で住んでいるのにベッドが幾つもあるのね?」と言うと、Mはベッドは用途に分けているから・・・と言う。ひとつは眠る為、ひとつは男と抱き合う為だけだと言う。それはとても賢明だ・・・と私。Mの顔は良く見えていないのだが、無表情ながら綺麗な子だと解かっている。

Mは静かに話を始めた。貴女の事は、見た瞬間から誰なのか解かっていた。あのラボには貴女のPCも写真も残されていたし、貴女のご主人からずっと昔に送られて来た録音テープも発見した。そしてそのテープの内容は、何時の間にかこうちゃん自身の声で直接語られていた。

カズエちゃんは自分がある日突然死んだら、俺にああしろこうしろと色々と言っていたね。ホームページを閉鎖する事を(やり方が解からなければ誰かに頼んででも)トップページで宣言して、それからしばらくしたらプロバイダも解約するようにしつこい位に言っていたよね。だけど俺はずっとそのままにしておきたかった。ある日、再びカズエちゃんは戻って来ると信じていたから。だからずっと料金を支払い続けて、ずっとサイトは手付かずで置いていたんだ。だけど昨日、終にそのプロバイダもなくなったよ。俺も歳をとってしまった。猫たちはもう20年前に最後の子を見送った。俺の命も、もうそう長くはないと思う。もう一度会いたかったよ。

テープはそこで終わっていた。Mは続ける。このテープが録音されたのは、内容から推測して30年も前の事。貴女があのラボで存在していたのは、60年も前の事なの・・・と。水道の蛇口の名残を見た時に薄々予感はしていたのだが、あの時のえも言われぬ不安と恐怖は当たっていたのだ。たった数分、仕事を抜け出して草木に水を撒いていただけだと思ったのに、戻ったら60年も経過していたのだ。もうこの世には、こうちゃんも私の猫たちも存在しないのだ。そう解かった時、堪らずに涙が溢れて来た。目覚めると本当に泣いていた。

直ぐには覚醒出来ず、もう一度眠ってどうしても続きが見たかったが、そう都合良くは見られない事は、これまでにも何度も同様の経験をして知っている。諦めて起き上がろうとすると、こうちゃんが「もう起きちゃうの?」とダイニングから覗き込んで穏やかな声で言った。その声を聞いて、今この世の中に生きていて、同時代にこうちゃんと愛する猫たちが存在するだけで幸せなのだと感じた。ラボもまだちゃんと平地の浜川崎に存在するし(当たり前だ)、来年度もどうやら首が繋がったようだし(これも当たり前だと言いたい)、少ない収入でも毎月きちんと入り、その為に労苦があったとしても食べて行く為に働くことは色んな意味で尊いのだとも思うし、もうこれ以上は望む事は何ひとつないのだと改めて思う。

浦島太郎の気持ちが解かった気がした。しかし浦島太郎は、竜宮城で酒池肉林(肉と言ってもタイやヒラメらしいが・・・)ただ面白く珍しく過ごして楽しんだ年月であったが、幾ら好きだとは言え私は如雨露で水撒きをしていただけではないか。この差は大きい。そしてそんな事が現実に起き得るはずはないけれど、私にも玉手箱は必要だ。こうちゃんも猫たちもいない60年後の世界で、私は一人では生きていたくはない。
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