リマ

白ヒゲ1本

Nov.20,2003
2003年11月20日
雨の五十日。当然のように通勤の道が混む。この1年間で、随分と色々と通勤経路を変えた。地図で調べて、あるいは実際に走りながらの勘で、あらゆる下道を通ってみた。その結果判った事は、どこも一長一短あるという事だ。

踏切がない道を選ぶと、当然一番の渋滞道路となる。尻手黒川道路がそれだ。あまりにもイライラするので、抜け道を色々と工夫したが、そうするとどうしても踏切があり、朝の通勤電車の過密ダイヤで踏切が開かない。ちょっと開けて、3〜4台通せば良さそうなものだが、閉めたままにしている。かなり待ってやっと電車が通過する。そういう事が4〜5回繰り返されて、ようやく遮断機が上がる。JR南武線の単線なのに、どうしてあんなに開かない踏切なのか?おまけに舗装が凸凹で、車が揺れて仕方ない。インプレッサだからか?線路の部分だけじゃないぞ、その両側も凄く波打っているのだ、道路自体が。

そして、どこから行こうが必ず通過する混雑ポイントというものもある。綱島街道を横切る時、尻手黒川道路を横切る時。これはどちらも渋滞道路だから、長く走らなくて済むよう、横切れる道を選んでいる。でも、そういう風に考えるのは私だけではないのだ。従って、横切るポイントに渋滞が起こる。そして尻手黒川と市電通りの交差点。信号が青になっても、直進出来るのは2台がせいぜい。その先は、駅周辺の混雑地帯だし、第一京浜は横切らなければならないし、家を出てからの殆どが渋滞していると言って差し支えない訳だ。

遠過ぎる。私には浜川崎は遠過ぎるのだ。いや、どこへ行こうと、日吉の山奥からの通勤は遠過ぎると感じるのだろう。それでも電車とバスを使うよりはずっと速くてマシなのだ。

みきこが高橋たか子の小説『怒りの子』の事を日記で書いていたのを読んで、久し振りで思い出した事を書く。私がまだ大学一年生の時、高橋たか子の『誘惑者』という小説を読んだ。内容は暗く、三原山の火口に飛び込んで自殺した友人を自殺幇助した大学生の女の子の話だ。細かい部分は忘れたけれど、極めて個人的で閉鎖的な感情と思索に満ちていて、今思うとおよそエンタテインメントではなくて詰まらない。

しかし、この『誘惑者』の中の主人公の独白が忘れられない。人と人を引き寄せるものは、しょせん階級意識に他ならないのだ・・・という意味の言葉だ。その階級意識というのは社会的な階級という事ではなくて、知的レベルを指している。当時は私もまだ傷つきやすい女の子で、この科白ひとつでこの作品にちょっとハマッた。しかし高橋たか子の他の作品は読んだ事がない。

大江健三郎の初期の小説『死者の奢り』にも、「生きている人間との対話は、どうしてこうも徒労に終わる事が多いのだろう。」という言葉(古い記憶だけで書いているので、細部は違っているかも知れない)があって、先述の言葉と共通する精神構造が根底にあるのを感じて読んでいた。

誰しも若い頃はとかく独善的で、自分以外はみんな無神経でくだらない連中だと思っている。でも、そういう風に世の中を舐めていると、後で手痛いシッペ返しに遭うのだ。ウサギが昼寝しているうちに、亀はどんどん先に行っていたのだ。私は若い頃はウサギ型人間だった。今はもう亀だ。毎日コツコツと積み上げている。但し積んでいるのがドロドロしたものなので、なかなか高くはならない。積み続けるしかないので積んでいる。中途半端にしたくないのと、この亀は何かと巻き込まれやすい性格なのだと思う。毅然としていないなあ。

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