《CAT'S EYES & CAT'S HANDS》猫雑記
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タム

今年も家庭内野良

Jan. 10, 2005
2005年1月10日 月曜日

気心が知れた相手でない場合、直接顔を見て話す場合に比べ、電話で相手の表情が見えない状態で話す時には、いつもの「素」の自分よりも若干テンションを上げ、メリハリをつけて話さないと真意が伝わらない事が多い。それは訓練しないと、なかなか出来ない事だという事も知っている。


私は語気の荒い、ぶっきらぼうな喋り方をする事が多い地方で育った。

女性は大抵「きつい」性格の働き者が多かったし、「カカア天下」の本場でもあった。今はどうか知らないが、私が育った当時は、今よりもそうした地方色が濃かっただろうと思う。

それで東京に来たばかりの頃は、普通に受け答えしていても「きついねぇ・・・」とよく言われた。

「何を怒っているの?」とも言われて、却って驚いたものだ。

しかし、その頃から身に染みて解かった。

自分がどういうつもりで話しているのかなどは関係なく、相手にどう響いて・伝わってこそ、言葉の真価があるのだという事を。



しかしそうは自覚しても、まだ客観的に自分を観察して評価するという事は出来ていなかった。それを徹底して思い知らされ、必要に応じて改革させられたのは、こうちゃんと出会った会社に入った時だ。

自分のトークを録音して聞かされた。

聞くに堪えなかった。どれだけぶっきらぼうで冷たく、そらぞらしく喋っているか、そんなつもりがない事を自分で一番知っているにも拘わらず、録音から自覚させられた。結構辛い体験だった。



30歳を幾つか過ぎた頃で、自分の個性や方向性はもう出来上がっていると思っていた頃だっただけに、今更自分を変えられるとは思えなかった。

しかし当時の教育担当をしていたこうちゃんは、殊のほか厳しかった。自分の「素顔」で舞台に上がってはいけない、必要な役を徹底して演じなければいけないと言われても、それは簡単に出来る事ではなかった。ある程度の訓練が必要だったし、そこには「気」を入れないと、演じている事は相手に見透かされるものだった。


小手先の演技や、口先だけの言葉は、相手の心には響かない。だから演技は技術だけでなく、ハートがなければ駄目なんだと、いつもこうちゃんは私達に指導していた。


それは一見非常に観念的な指導のように見えて、実際にはこうちゃんが実践して見せると自分の努力不足を感じられたし、努力して実践出来たときにはきちんと結果が出て納得させられるものだった。


相手に誤解を生んで「そういうつもりで言ったのではない」とエクスキューズする事は、大変にナンセンスなものなのだという事を実感したのもこの頃だ。言葉は相手にどう伝わってナンボのもの・・・それが私の命題となった。



心から思う事と訓練とが伴なわなければ、自分とは感性も価値観も違う他人の心は納得させられないのだという経験をさせて貰えた事が、その月日の中では二番目に大きな収穫だった。

一番目は・・・そりゃ勿論こうちゃんをゲットした事だ。



しかしその「有り難い」指導を、まともに受け止めて実践していた部下は一体どれだけいたのだろう?と今になって思う。

当時は知らなかった裏事情が、最近になって少しずつ見えて来たから、誠実だと思っていた同僚が、結局は小手先だけだったのか・・・と思い知る事があり、それもまた辛い。

さて、そ

の当時は電話と対面してのコミュニケーションだけであったのだが、現在はインターネットでのメールが、コミュニケーション手段のかなりの部分を占めるようになっている。

普通の人がどうかは知らないが、サイト運営をしていて里親募集の掲載依頼やSOS、そして相談事を承る立場にあると、それは皆さんの想像を越えたボリュームが存在すると思う。

これは一日も途切れず、ボリュームは増すばかりだ。

そんな年月の中で、私は一定のスタイルを持たざるを得なかった。それは余計な婉曲表現や装飾をギリギリまで省き、用件と回答のみ返すというやり方だ。もちろん、相手次第では励ましの言葉も気遣いもしているが、それでも足りないと言って来る輩も時々いる。



つまり、私の回答が「上からものを言っている」「傲慢だ」という批判を寄越す人がいる。

人に意見を求めておいて、或いは援助を求めておきながら、自分に欠けた部分や非を認めない代わりにそういう事を言って罵倒する相手の事はどうでも良い。それは「キチガイ」というフォルダにまとめて保管してお終いだから。

それにしても、人の時間と手間を奪う相談や頼み事ををしておいて、自分は対等だと言い張る神経も理解出来ないけけど。



問題は、普通にお付き合いを続けている相手の中にも、私のスタイルを嫌う人たちはいるだろうという事だ。

しかし、ここで「私はそんな高飛車な人間ではありませんよ」等とエクスキューズするつもりはない。相手にどう思われるかのイメージは持った上でしている事だから。

しかし一部の聡明な人たちは、私がどう強く振る舞っているつもりでも、とっくに私がただの「ヘコタレ」で「親切」なオバサンである事を見透かしているのが悔しいけど



それは、ある意味「踏み絵」でもある。

個人としては限度を越えた案件数と人数を相手にしていると、全ての人に甘い言葉を散りばめた回答は出来ない。ある程度、厳しい建て前を最初に突き付けることが必要だと、この5年余りの経験で解かった。

私の目的は、自分を理解して貰う事ではない。ある程度は自己表現の場でもあるけれど、既に別のところに目標を掲げた以上、気持ちを強く持って目的に添う形で自分を律する事が必要になって来ている。



楽しくやりたい。

しかし、それだけでは無理な事も自覚している。だから人の寝ている時間にも、努力するのだ。単に強制給餌が1〜2時間毎にあるから起きている訳じゃない。

私のメールの返信が素っ気無くて、痛いところだけ突かれたと怒っている人たちは、日に30〜50通もの問題事の返信を365日5年間書き続けてみてから言って欲しい。

他人の問題解決に金と時間を遣っているのは私の道楽だと嘯いているけれど、そう嘯き続けるのにどれだけの気力と克己心が必要かは、自分の限界や弱さを自覚している自分だけが知っている。



こんな事まで書くのは、どれだけ野暮である事だろうか・・・しかし言っておく必要も生じて来る。

人とたくさん関わるのは何かと面倒で、自分も下手をすると損なわれかねない。それを甘んじて続けるとしたら、どこかで浄化作用が必要なのだと思う。

それが出来ないと、心身共に病むだろう。

だから時々は言うよ、自分の為にも野暮な事を。



それにしても、肉親でもないのに敢えて厳しい事を言うのは損だね、全く。

でもやめはしないけどね。目的があるから。それが独り善がりの目的でも構わない。私個人の人生であり、私個人のサイトなのだから。文句があるなら私にもサイトにも近づくな・・・というかな。

今日は、「ムゲン」の譲渡日だった。

既に里子データへの移行を済ませ、そこでバラしてしまったけれど、里親さんはちえちゃん夫婦だ。これでちえちゃんとは、また新たにご縁を深めさせて戴いた事になる。

ちえちゃんのところには、去年鈴木さんの保護猫「バカボン子&峰フジコ姉妹」をお世話させて戴いた。それよりかなり以前にも「リリン」ちゃんを仲介させて戴き、旅先で出会ったサビ猫の仔猫を「あっ、ジャムちゃんだ!」と貰い受けて下さった経緯もあった。

今回の「ムゲン」の保護主の元には、保護主が「ムゲン」を保護する4ヶ月前に、鈴木さんの保護猫「ダンディ改め七歩」が里子に行っている。

そして今回の里親さんは、鈴木さんから「バカボン子」たちが里子に行っている。

鈴木さんからは、私の家にも「レン&タム」が里子に来ている。そして「ムゲン」の保護主げこちゃんは、私と血縁関係がある事も去年判った。何と複雑に絡み合ったご縁だろう。(注1)

ムゲンは既にちえちゃん宅で部屋を探索して回り、バカボン子改めアンちゃんと遊んでいる。

心配していたメル君の反応も、意外に興味津々な様子だ。

初日にしては、信じられない程の順調なスタートと言えるだろう。でもそれこそが、ちえちゃんとパパの人柄の為せる業なのだと思う。
メル君、ムゲンに怯える事もなく張り付いていたそうです。

写真を勝手に拝借しました、ちえちゃん。
みんなでわらわらと、ムゲンの入って来たケージに群がる様子。

この楽しそうな様子を全部見たい人は、ちえちゃんのサイト《casper》まで行って続きを見て来て下さい。
レン ぶーちゃんに甘える
Jan., 10, 2005

今日は顔面神経痛と偏頭痛で一日苦しんだが、明日はよんどころない用事で朝からある場所へ出掛けなければいけない。うまく行けば往復と所用を済ませても、1時間で戻れる予定。道が混まない事を期待する。

ジーコもアインも、今日は吐かずにいてくれた。その代わり、ゴマが吐いた。私がやっと仮眠を取ろうとすると、誰かが嘔吐する音が背中で聞こえる。アインが私の腕枕で気持ち良さそうに眠っているのに、「ごめんねアインちゃん、直ぐに戻るよ」と言ってベッドを抜け、ゲロッパの始末をする。

やっとまたアインを腕枕して落ち着くと、今度は電話。そういう時に限ってこうちゃんが部屋に居ない。しかし、こうちゃんだって遊んでいる訳ではないのだから仕方ないね。

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