ジャム
光の中 5変化
Nov. 13, 2006 |
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2006年11月13日 月曜日
晴れて昨日の風は弱まり、日中は寒さも緩む。それでも空気は冬の匂いがする。乾燥しているせいだろうか。
ここから冬の期間が余りにも長いのだ。自然界では春に再び命が甦るまで、そして夏にその命を最大限に謳歌する為には、それ程に長い休息と準備が必要という事なのだろうか。
だとしたら、人間も自然の営みに合わせて冬眠に近い状態に入ってはどうか。経済活動も最小限にし、資源もあまり使わないで、みんなたくさん眠るようにするのだ。食事も日に一度だけ、勿論締め切りのある仕事なんかしちゃいけない。
私の永遠の憧れだな、島民・・・じゃない、冬眠。
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ジャム
こうしていると子供
Nov. 13, 2006 |
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ジャム
少しお姉さんぽく
Nov. 13, 2006 |
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ジャム
美少女の面目躍如
Nov. 13, 2006 |
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ジャム
ぷぎ〜っ
Nov. 13, 2006 |
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寝不足(3時半就寝、5時半起床)なのに、朝の目覚めが良い。アロエベラジュースを飲み始めたせいだろうか。
高いものだけに勿体無いけれど、今度、保存料の添加されていないものに規格が変わったらしいので、在庫を私が飲んでしまう事にしたのだ。
ああ勿体無い。でも体調が良いと助かる。毒素が出ているのかな、このスッキリ感は。
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朝ご飯
Nov. 13, 2006 |
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毎日、ニュースでは「いじめ」の問題と、それに関連しているらしい自殺問題ばかり報道している。
「子供」が自ら命を絶つなど、背景にどんな悩みや苦しみ・問題があったとしても、あってはならない事だと思う。それは「いじめ」というものの存在以上に、あってはならない。
個人の多様な感性や価値観に於いては、いっそ死んだ方がマシだというほどの苦しみがある事も理解出来る。でも、それが永久に続く苦しみだとは思えない。そんな苦しみは、いじめられる事くらいではあり得ない。
どこかの学校長が会見して、自殺した子の心が傷ついていた事を防げなかったと謝罪していたけれど、そんなものを学校側が防げると思う方が間違いだし、思い上がっている。
故意に他人を傷つけるのは良くないとしても、誰もがみんな結構勝手に傷つき、そこから保身も覚え、如何に強くなれるかの闘いを始めるのだ。それが成長というものだろう。
社会とは、そんなに個人一人一人にフィットさせた環境を創り上げられるものではあり得ない。最大公約数的な規律の中に個人は身を置かざるを得ず、その中で常識的なものさしに合わせつつも、譲れない個人の感性や価値観を貫くしかないという事は、古今東西どこだって同じではないか。
昔から「いじめ」は存在していたし、異常な暴力を伴なうものは別としても、報道される程度の精神的苦痛を以って「いじめ」と一括りにして自殺の原因に仕立てるのは、報道機関もどうかと思う。子供にそんな、自殺を正当化する大義名分を与えてはいけない。
可哀想だが、自殺する者は大人・子供を問わず弱いのだ。
苛められた事が無いからそんな事が言えるのだろうって?苛めに遭った事くらい、幾らでもあります。
言葉による暴力、申し合わせた無視や中傷、靴や体操着を隠されたり捨てられたり、登校時に青い固い梅をぶつけられた事もあったし、サッカーボールが後ろから狙って頭に当たった事もある。
2学期にわたって、目の前で大声で私を罵倒し続けた男子もいた。「ブス」だとか「気持ち悪い」だとか言われたし、それなりに気にした事もあったが、やがて年頃になると自分はそうブスでも気持ち悪くも無い事を別の男の子によって自覚させても貰った。
今にして思うと、あの子は絶対に私を好きだったのだ。オバサンになると図々しいから、そういう風に思える。
理不尽な「いじめ」は社会人になってからでもあったし、出社拒否したくなるような憂鬱な日々だってあった。ついでに言えば、苛めが原因ではないものの自殺したいと思った事も2度程あった。
でも、「いじめ」(のようなもの)はいつかうやむやのうちに乗り越えたし、自分で自分の命を絶つなんて事は出来なかった。
こんなくだらない私の事でも愛してくれる親兄弟(妹だけだが)がいると思うと、後に残された人達の気持ちを思うととても自殺など出来なかったし、そもそも死ぬ事は本能的にとても怖かった。
今はお気楽な事に、そんな「死にたい」程の悩みなど無い。
悩みといえば、これ以上猫を増やせない事、毎日時間が足りない事、体力が衰えて来た事位だ。貧乏ですら悩まない。借金せずに泥棒せずに食べて行けるのだから、貧乏などと言ったら罰が当たるかも知れない。
子供は無分別で残酷なものだし、自分が異端と見なされない為にスケープゴートを必要とする事は、大人の社会にだって幾らでもある事だ。
私だって被害者だったというだけであるはずがない。自覚していようといまいと、加害者になっていた事もきっとあるはずだ。
死んだ者は全て正しく、被害者でしかなかったと言ってしまって良いものだろうか。一つ間違えば、苛めの加害者側になってこそ安堵している日々だったかも知れないのだ。
敢えて「死んでしまえばこの苦しみから解放されるのに・・・」と思う事があるとすれば、愛する我が子の最期に寄り添う時だけだろう。
それでも死なない。死ねない。まだ生きている子たちに対する責任があるから。そして、生きる事は苦しい事なのだと覚悟し(諦め?)たから。
そうだとしても、生きていれば、生きていて良かったと思う瞬間は不思議とまた幾らでも持てる。生きていれば自分を役立たせる場面は幾らでもある。
それは気持ちの持ち方次第でもあるし、思いがけない偶発的な事でもある。兎に角、生きるという事は未知数なのだ。それを何も解からない人間が、勝手に生きる事をやめてしまうのはおこがましい事なのだ。
生まれて来た事も自分の意志ではないし、死ぬ事も自分の意志ではないという事を謙虚に受け入れないと間違う。
苛められた位で死を選ぶのは一種のヒステリーだ。本当の絶望なんて、そんな甘ったれた精神構造の子供(年齢に関係なく)に解かるものではない。
私だって、本当の絶望なんて知らない。
ミュウやアインの死だって、いつかは必ず訪れるべきものだった。それがどれだけ辛くて、その苦しさから目を背けたかったとしても、それは絶望とは違う。むしろ希望を持っているとも言える。何時の日か、また会える・・・そう信じているから。
今は結構好き好んで苦労しているけれど、私とて子供時代はぬるま湯で育ったのだ。理不尽に空襲で命を奪われるような、そんな絶望的な世界を私は知らないで生きているのだ。
だから帳尻を合わせるべく、少しくらい苦労して丁度良いと思っている。苦労ったって・・・はは、幸せの方がずっと多いのだけど。
子供たちは、死んだらいけない。そんな幼くして死を選べる程に、君たちの精神は出来上がっていないのだ。そんなスタートして間もない時点で生死を決めたら損だよ。
生きていると、楽しい事は本当にたくさんある。一時的な苦しさや衝動で死を選ぶのは馬鹿げている。誰かにあてつけのようにして死ぬのもバカバカしいし、死に損だよ。
弱いものは淘汰されて仕方ないなんて言われても平気なのか?私だって言っちゃうよ、死にたい奴は予告なんかしないでさっさと死ねと。
生きていてこそ君を傷つけた人間を見返してやれるし、楽しい思いも出来るんだよ、今はとても想像出来ないだろうけど。
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今日のにゃんこ
僕は「白くん」、白いから「白くん」・・・よくあるパターンだよね。
僕の飼い主は病気なんだ。もうずっと僕たちの家に居ない。
飼い主はもう帰って来ないんだって、僕は気づいている。他のみんなはどうか知らないけど。
だって、僕は一人で別の部屋に居るんだ。
一緒に寝てくれる飼い主はいない。
白猫ってさあ・・・人間が大好きなんだ。だから僕は寂しい・・・。
僕を愛してくれる人は、どこかにいないかな?
僕、結構いい子だよ。長毛が入っていてハンサムだって言われる事もあるし・・・
(僕の事は里親募集No.443-1738-6で見てね♪)
「今日のにゃんこ」を募集します!詳しくはこちら |
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覚え書きとして:
朝はご飯を炊いて、蜆の味噌汁と炒り卵ケチャップ掛け、しし唐炒め、茹でたスティックブロッコリーのマヨネーズ掛け、昆布の佃煮。
昼は焼きそば。具はキャベツと豚コマ、もやし。そして梅干しのおにぎり1個。
夜はスパゲッティ・カルボナーラ。
具はベーコンとしめじ、しいたけ、玉葱、卵。仕上げにパセリのみじん切りをたっぷり振り掛ける。
喉が渇いて、蜜柑を食べ、アグアプラスの水をガブガブ。お陰でトイレが近いったらありゃしない。 |
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