マルコ
天を仰ぐ
May. 16, 2007
(撮影は15日朝) |
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2007年5月16日 水曜日
夜が明けたのに、マルコは眠ったままだ。
あまりにも艶々ですべらかな毛並みと穏やかな表情は、揺り起こせば目を覚ましてくれそうだというのに。
寒い夜明けだ。
カワムラさんの部屋には暖房を、そしてマルコが眠るミュウの部屋には冷房を入れておいた。
冷房などしていなくとも私の仕事場兼寝室は充分寒い。
私の体温が低くなっているのか、本当に部屋が寒いのか、それがよく解からない。
何を書いているんだろう、私は。
泣き過ぎて熱っぽく、頭がボーッとし、目は腫れて霞む。
何をするのも気力が湧かずに辛い。ベランダの鉢植えに水をやるのも辛い。水やりをする私を、ジャムもゴマもマルコも毎日飽きずにじっと見ていた。
それでもたくさんの猫たちと私達が生きて行く為の最低限度の事はしなければならない。鼻水と涙を垂れ流して泣きながらまな板に向かっていると、こうちゃんが後ろからやって来て、自分の方に抱き寄せてくれる。
こうちゃんも泣いている。抱き合ってしばし泣く。私は包丁を握ったままだから、ちょっと危険だ。
息をしていないマルコに気づいた時の恐ろしさと衝撃は、やはり言葉では言い表せない。
おふざけマルコの悪い冗談としか思えなかったから、何度も揺さぶったり叩いたり大声で耳元で呼んだりして起こそうとしたけれど、マルコは2度と目を開かなかった。
マルコがこんなにも突然、5歳という若さで死んでしまう事など、全く想像すらしていなかった。
死の淵を彷徨い続けていたカワムラさんが、何度も何度も奇跡のように生還し続けているというのに、元気で丸々していたマルコが、チラリとも気配を見せずに黙って逝ってしまうなんて・・・酷いよ、マルコ。
悪い夢を見ていると思いたかった。いつものように、マルコが悪ふざけしているのだと思いたかった。直ぐに息を吹き返して、うるさいくらいに鳴いて、グネグネゴロンゴロンし始めると思いたかった。
でもマルコは永久に目覚めないという、恐ろしい事実がいつまでも残った。
どんな死に方であろうと、我が子同然の愛する猫に先立たれるのは辛い。残しては死ねないのだから、先立たれる方がマシなのだが、そういう理屈はさておき、死なれるという事がこれ程に辛く苦しいとは、覚悟の程を遥かに越えている。
先に望みの無い闘病をさせながら傍に付いている苦しみを経て見送る事も、それはそれで堪え難いものがあるし、さっきまで元気だった子が眠っ昼寝しているかと思ったら、ふと気づいたら眠るようにして死んでいた・・・そのどちらが辛いかなど比べられないものだと知った。
だけど、苦しいのは私だけじゃない。愛するものを失った人たち、誰もが例えようもなく、みんなそれぞれがこの世で一番苦しく悲しいのだ。
我が儘放題で、愛されて、パパとママに手を掛けさせて・・・「食べるから撫でて」「お昼寝するから見てて」「あっちに行きたいから抱っこして運んで」「電話をやめてこっちに来て」・・・
一日中要求をして、うるさい位にお喋りな猫だった。
可愛いだけがお仕事のマルコ。最期までそのお仕事はきっちりやり遂げたね。
でも、最期にちょっとだけいつもの我が儘と要求をして欲しかったよ。ママを呼んで欲しかったよ、マルコ。
ミュウたちの時と同様に、この恐ろしい事実としっかり向き合う事はせず、生きているたくさんの子たちの為に忙しくしてバランスをとる以外には、私にはこの苦しみをやり過ごして生きる力が持てそうも無い。
何もせずにマルコの死を悼んでだけいたら、頭がおかしくなって死にたくなるだろう。
私は弱い。自分でも解かっているのだ。だからこそ、しっかりしたいと思う。
朝の9時半に火葬場からのお迎え。ミュウたちと同様、立ち会いの個別葬でお願いする。マルコは美しいお骨になって帰宅した。
マルコに供える為、昨夜のうちにお花を買いに走った。マルコには何故か向日葵が似合うと思う。それで黄色い向日葵を真っ先に買った。
他にもマルコには向日葵が似合うと言ってくれた人がいる。嬉しいね、マルコ。
マルコが眠っていた場所からほんの30センチ位しか離れていない場所で、ゴマは昼寝し続けていたし、色んな気配に敏感なジャムも2メートル位のところで穏やかに寝ていた。私達も同じ部屋に居たのだ。
誰一人、僅かな異変も感じずに居た。本当にマルコは、眠りの延長で逝ったのだと思える。
非科学的な事を言うようだけれど(責任転嫁をするつもりもないし)、死因は病気でも心臓発作でもなくて、天に戻るタイムリミットが来たので、生命を与えていた魂がただスッと出て行っただけのように思えて仕方ない。
マルコは太陽の子だった。
そんなマルコの生き様に、私達が今後あるべき姿を教えられた気がする。
今までも比較的そうではあったけれど、人の悪意や邪念に対しても鈍感なままで居よう。そういうものに気づいた時に、認知してキャッチした時に、存在感や影響力を与えてしまうのだと思う。
気づかせる為の邪悪な試みをして来る相手もいるものの、私達はいちいち感じないし、ましてや受け取りはしない。
悪意を抱くような人間は、そもそもが弱い。そんな弱い者の邪念や悪意に負ける程、私達の信ずるものは弱いとは思えない。
私達は、今まで通りマヌケなまでに無防備で思う通りに生きよう。マルコが私達にだけ見せてくれた態度を見習って。
余所の人たちには最期まで警戒を解かず威嚇して怯えていたものの、パパとママと2階の猫たちにだけは強気で大らかにバカちんぶりを見せてくれていた、あのマルコらしさは、私達への何よりの贈り物だった。
無邪気なお気楽マルコ、そして生きる為の本能に忠実でご機嫌に生きて手本を見せてくれているカワムラさん・・・この二人のオスが私達に教えてくれている事をきちんと受け止め、手本として倣わなければいけない。
有り難う、マルコ。一番大切な事を教えてくれて。
私達もマルコのように生きるからね。
バカでお気楽で無邪気で、そして幸せに。
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端正なマルコ
May. 16, 2007
(撮影は15日朝) |
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おどけたマルコ
May. 16, 2007
(撮影は15日朝) |
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無邪気なマルコ
May. 16, 2007
(撮影は15日朝) |
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マルコ
「ママ、待ってるね」
May. 16, 2007
(撮影は15日朝) |
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我が家では4つ目の骨壷。
私の猫たちのお骨は、ペット霊園に入れるつもりは無い。
私達には、墓を守って貰える子孫は無い。そして私達もまた、墓に入るつもりが無い。だから、その後の事を考えると、霊園に入れる事は厄介の種となり得るので出来ない。
やがては我が家には25個もの骨壷が揃う事になるだろう。
と言っても、それぞれの過ごした部屋毎に置き場所を設えるつもりでいるので、一箇所に勢揃いする事は無いかも知れない。
ともあれ、私達が死ぬまでには、猫たちのお骨と私達のお骨をどう処理するのかをきちんと決めておかなければならないと思っている。
25匹を全て無事に見送る覚悟と決意を込めて、猫たちの骨壷は手元に置く事にしたけれど、やがて長い長い年月を経た暁には、私達の骨も含めて全て灰塵と化すだろう。
本当は、肉も骨も全て土に返れればどんなにか良いだろうと思う。しかし、守る者がいなくなったお骨はどこに捨てられようと、地球上の何らかの物質に留まるのだろうから、まあそれだけで良い。
大事なのは身体や骨そのものではない。ただ私達が生きている間だけ、この子たちのお骨を手元で守り続けるというだけの事だ。
マルコの骨壷は、可愛がってくれていたアインの隣に置いた。
ジーコはアインも好きだったけれど、やっぱりミュウが大好きだったから、ミュウ、ジーコ、マルコ、アイン・・・という風に並べた。
5歳を過ぎても、いつまでも赤ちゃんのままだったマルコ。
アインは決して母性の強いメスではなかったけれど、我が子のジーコと、そしてマルコだけは受け入れていたから、きっと天国でも甘えさせてくれるだろう。
そう言えば偶然だけど、トップページでもアインと並んでいるんだね。
愛しい愛しいマルコ、奥目で頭の大きなとぼけたマルコ。
身体は失っても、永遠に魂は私たちの子供のままだ。
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マルコ
向日葵が似合う
May. 16, 2007 |
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