2011年 《CAT'S EYES & CAT'S HANDS》 猫雑記
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ママ近影

Apr. 27, 2011
ママ
2011年4月27日 水曜日

母が死んでしまった。



何の前触れもなく。

何ら心の準備もないまま。





あまりに突然の事で、言葉にする事も空々しい位なのだけれど、今の状態で書き留めておく事にした。

私個人の通過儀礼として。

ちゃんとこの現実を腑に落ちさせる為の儀式のひとつとして。




「ママが死んじゃった!」

私が電話をとるなり、妹が悲痛な声で叫んだ。



妹は何を言っているんだろう。

何なんだろう、この違和感は。

衝撃とか驚きとか、悲しいとか、そういう言葉では言い表せない、暗闇から凄い勢いでマグマが湧き上がるような強い違和感。

母が死んでしまったなんて事はあるはずがなく、決してあってはいけない事で、今起きるはずの出来事ではなかった。






でも、直ぐにそれは恐れていた事実だと呑み込めた。

恐ろしい、認めたくない悪夢のような事だけれど、冗談でも勘違いでもない事は解った。



だって私は今日昼間から何度も母に電話していたのに、母は電話をとらなかったのだ。



昨日、私は母宛に荷物を送っていて、それが午前中に届いているはずだった。

いつもだと届くと直ぐに電話をくれる。

なのに、昼を大分過ぎても電話は来なかった。

私から電話しても、母は出ない。

そんな時、着信履歴を見て母からコールバックしてくれるのが常だったのだが、それもない。



妹が会社を終えてママに「帰る or 残業になるコール」をする時刻になって電話しても、母は電話に出なかった。

いつもだったら、私と電話していても「そろそろユキエから電話がある時間だから切るよ」と言って、妹の電話を(いや、妹の帰宅を)心待ちにしている母だから、その時間に電話に出ないなんてあり得ないのだ。





母に何かあったのではないかと不安になって、妹の携帯に電話を入れる。

妹は会社を出たばかりで「運転中だから、家に着いたら電話して様子を知らせるよ。多分携帯をバッグに入れたまま忘れたとか、そういう事だろうと思うよ」と言って電話を切った。



そして15分後、妹からの着信音が鳴り、私が出ると妹が叫んだのだ。

「ママが死んじゃった!」






嘘だ。

母が死ぬなんてあり得ない。

昨日、あんなに元気だったのだから。

「また明日ね」と言って電話を切ったのだから。

まだ80にもなっていないのに、あと10年も15年も生きて、ママの母親みたいに100まで生きるはずだったんだから。

そして何より、私よりも肉体年齢は若々しい位、健康そのものだったのだから。




妹はもう何年も前から実家の近くで一人暮らしをしているのだが、勤め帰りに実家に立ち寄って晩ご飯は実家で一緒にしてくれていた。

動く足の無い母に代って買い物をして帰り、

父が長患いしている時にも、父が入院した時にも、そして父が死んだ時にも、一切合切を切り盛りしてくれたし、母を思いやり、母の話し相手になり、何につけ母を助けてくれていた。



父も母も、妹が毎日晩ご飯を食べに立ち寄るのが楽しみにしていた。

妹は決して料理や家事が出来ない娘ではないのだけれど、親孝行のひとつとして、勤め帰りにわざわざ実家に毎日顔を出してくれていたのだ。



昨日妹は母が揚げたヒレカツで晩ご飯を食べ、「明日はカレーだよ」と言われ、「じゃあまた明日・・・」と言ってアパートに戻った。

私は私で、毎日の日課である母への電話でひとしきり雑談をし、「じゃあまた明日ね」と言って電話を切ったのだ。



また明日・・・と娘二人に約束したじゃない。

どうして突然死んでしまったの。




母は夜のうちに眠るように死んでしまっていた。

妹が立ち寄った時には既に硬直していたという。



昨日、あんなに元気で私と色んな話をしたのに、どうして母の命は昨日で終わってしまったのだろう。



これが神様が母に与えた運命というものなのだろうか。

それとも父が待ち切れずに連れて行ってしまったのだろうか。



いずれにせよ、ひど過ぎる。

こんな事って無い。

母を返して。

私と妹に、あの母を返して欲しい。








父が死んでからのこの1年、母は少し弱っていたのだと妹は言っていたし、私も時々感じていた。

気丈な人だし、様子を訊くと必ずいつも「大丈夫」だと言っていたけれど、ちょっと声が出ない日もあれば、僅かに呂律が回っていない日もあった。

少し前には軽い脳梗塞もしているし、先日はご近所の葬式があって、寒い中2日連続で手伝いに出ていた母はとても疲れていたと思う。

従姉妹も亡くなり、その法要にも出たばかりだし、何と言っても父の1周忌を済ませたばかりだった。





頑張り過ぎる人だから、疲れが溜っていたのだろうとは思う。

でもどうして?

いくら何でも母が死ぬなんてあり得ない。





どんな事だって起こり得る。

そして誰だっていつかは死ぬ。

その時がいつなのかも解らない。一寸先は闇なのだ。



それは解っていても、母がこんなに早く死んでしまうなんて、そんな事があって良いはずがない。

私にはまだその覚悟が出来ていない。




病院で死んだ訳ではないので、検死も事情聴取もあったようだ。

事件性がないか、財布や現金、預金通帳などがなくなっていないか調べさせられたようだ。

全て自宅でして貰えた事のようで、母の遺体は家から運び出される事は無かった。



でも鍵は全て内側から掛っていたし、室内も荒らされていないし、母の身体には外傷も不自然なところもなく、自然死としか考えようがなかった。

決まり事とは言え一応は事件性を疑うものなんだな、警察は。あまり良い気持ちのものではないけれど、仕方ない。



母は一人の時にひっそりと死んでしまったのだ。

多分、自分でも気付かないまま。





私が出発する前に、妹が連絡をした母の姉やその娘、父の妹のご亭主、そして会社の親しい友人たちが既に次々と駆け付けてくれていた。



お陰で妹は母と二人きりの時間は極めて短く、ゆっくり泣いている暇もなかったようだ。

本当の悲しみ、本当に辛い時間は、これから・・・全ての通過儀礼が終わってからやって来るのだ。




「ママが死んじゃった!」

そう聞いて、先ずは救急車を呼ぶように伝えて電話を切った。



だけど妹を一人にはしておけないと思ったから直ぐにこちらからまた掛け直して、「直ぐに行く」と伝えた。

その時、もう救急車が到着した音が聞こえた。



でも救急搬送はされなかった。

母は息を吹き返す事などなく、完全に死んでしまっていたのだ。





妹は「お姉ちゃんが来るのは無理。来ないでいい」と言ったけれど、こうちゃんが車を運転して送ってくれると言うのに甘えて、兎に角、行く事にした。

鎮痛剤を多めに飲んで、何とかして行こう。





こうちゃんは猫たちの事があるからトンボ帰りするしかないが、私は数日滞在するつもりでいた。






ともあれ、我が家の猫たちの事だけは済ませてからでないと家を出られない。

全速力で猫家事を済ませ、数日分の下着の替え、非常用に食べられそうなものを色々、甘い飲み物、そして自分の薬などを用意した。

喪服は持って行きたくない。

非常識と言われようが、いつもの普段着で行く。






7時半頃家を出てようとした時、玄関のポストから夕刊が飛び出している事に気づいた。

それを家の中に入れるついでにポストの中を見ると、母から絵葉書が届いていた。

毎週2通ほど、綺麗な絵葉書に綺麗な切手を貼って、母の綺麗な文字で便りが届いていた。

母は死んでしまったというのに、母からの便りが届いているなんて。



その葉書をバッグに入れる。

他愛もない内容なのだけれど、読めそうもない。でも家に置いて行くのも辛かった。




行きがけにコンビニでお金を引き出し、当座必要になるものの足しにして貰う事にする。

一度に20万しか引き出せないなんて初めて知った。その都度、手数料がかかるというのに。





「関越道」か「東北道」かどちらで行こうか・・・とこうちゃんが訊く。

私は「東北道」を選んだ。

距離的には「関越道」を選んだ方が近いような気がする。

だけど「関越道」に乗るまでの道が混む。確か、どちらから行っても同じくらいの所要時間だったはず。



それに今は雨があがっていたけれど、さっきまでは音を立てて降っていたのだ。

今夜から明日の朝にかけて強い雨になるという予報だったので、カーブが多くて水はけの悪い「関越道」は避けた方が良いと判断した。

それが正しい判断だったのかどうかは解らないけれど。






先ず荏原で首都高に乗り「6号向島線」をひた走るのだが、節電のせいで首都高は真っ暗だった。

異常な位にカーブが多くて車線が狭く壁が迫っている首都高はただでさえスリル万点だというのに、こうも真っ暗だと怖い。

おまけに合流や分岐も矢鱈と多いのに、標識が真っ暗で見えない。

でも道路に「←東北道」とか書いてくれてているのは、最近の変化なのだろうか。

これはいいね。もっと徹底して書いておくべきだ。



どの車も物凄くスピードを出している。

こちらは「軽」だし安全運転で行こうね・・・と言って制限時速を守って走っていると、かなり露骨に、そして危険を感じる位ギリギリのタイミングで割り込み、追い越された。



インプレッサで帰省したのは、もう10年近くも前の事だろう。

あの時は私達も飛ばした。

どの車にも負けるものかと思ったし、実際、私のインプにはそれだけの力があった。私達もまだ少し若くて体力があった。

パワーのある車と言うのは、危険が少なくて済む。

だけどその車を乗りこなすには、こちらにもパワーが必要だったのだ。



そのパワーがもはや二人には無い事を、今回の腸距離ドライブで思い知った。





一般車も走ってはいるが、周りの車はトラックばっかりに思えた。

そしてどの車も車間距離をとらずに飛ばしている。



絶えず強風が吹き荒れていて、高架の首都高には特に強い横風が吹いている。

時々その強風にハンドルをとられそうになる。



これで事故なんか起きたら、随分とたくさんの車が巻き込まれるだろう。

うちのステラなんか、大型トラックに追突でもされたらイチコロだ。



いや、その時にイチコロなのは私達だ。

首都高の京橋あたりまで来ると2車線の真ん中に橋脚があって、ダイアナ元妃とドディ・アルファイド氏の事故死の現場をつい連想してしまった。



今、私達が交通事故なんかで死ぬ訳にはいかない。

交通事故だろうが、突然死だろうが、今はまだ死ねないのだ。



だけど死んだ人の誰もが、まだ死にたくない、まだまだ死なない、まだ死ぬ訳には行かないと思っていたに違いない。

そう、母だってまだまだ生きるつもりでいたはずだ。



また明日ね・・・と昨日も言っていたんだ。

そして私が浴衣を雑巾にしようかな・・・と言ったら、「雑巾になんかしないで、そのままあげたい人がいるから送ってよ」と言っていたのだ。



「雑巾をまた4枚縫ったから、ユキエに渡して送って貰うね。このあいだ6枚送ったでしょ。元々10枚縫うつもりだったから、これで10枚ね」とも言っていた。

それが昨日の夕方だった。





雑巾、まだ貰ってないよ、ママ。

まだ私の送った荷物も受け取っていないでしょ?

ママをほんの少し喜ばせる為の物を送ったのに、見ていないでしょ?



突然死んじゃうなんて酷い。

私と妹を置いて、こんなに早く逝っちゃうなんてひどいよ、ママ。

どうしてなの?




向島あたりで渋滞はあったものの、あとはスイスイ走れて、佐野インターで「東北道」を下り、50号バイパスを走る。

だけど遠い。



途中、出来るだけ母の事を考えないように努めたのだけど、無理だった。

何度か堰き止められない思いが溢れて、用意して行ったティッシュがどんどんなくなる。

これだけ涙と鼻水が出たら、浮腫みも引くのではないかと思う位、大量に目と鼻から水分が出た。

そのせいかどうか解らないが喉も乾くので、用意してあったペットボトルのお茶がどんどんなくなる。






やっと実家に着くと、もう12時近かった。

家の周りにはたくさんの車が停められていた。

こんにたくさんの人が来ているんだな、お通夜でもないのに。



庭から入って行くと、妹の友人らしき人が私達に気づいて妹に知らせてくれた。

妹が出て来る前に、従姉妹のカオルちゃんが姿を見せて「カズエちゃん・・・」と言った。



大学生の時、夏休みで帰省しているさなか、母方の祖父が亡くなった。

危篤の知らせを受けて駆け付けたら、カオルちゃんが奥の部屋から出て来ながら「カズエちゃん・・・」と言って泣き崩れた。

それで祖父はもう死んでしまったのだと知った。



あの時の事をまざまざと思い出した。

カオルちゃん、随分と大人になったね。

もう50近いんだもの、当たり前か。





その後から妹が出て来て、「お疲れ様」としみじみとした口調で言った。

私は胸が一杯になって何も言えなかった。



妹の顔は随分とやつれていた。

そして泣き腫らした目をしていたけれど、涙を拭いながら接客に忙しそうだった。






家に上がると、カオルちゃんの母親で、私の母の姉である伯母の姿があった。

「エミコおばさん」と言ったら、涙が堰を切って出て来た。

「いいお顔しているから、見てあげて」

エミコ伯母さんはそう言った。



だけど私は母の顔を見るのが怖い。

見たら本当に母が死んでいるのを認めるようで、見たくなかった。



何でこんな場所・・・と言っても私の実家なのだが・・・に来てしまったんだろう。

ここには悪夢が現実の舞台として存在している。

私はその舞台になんか上がりたくないし、観客にもなりたくない。

別の次元へと逃げていたいのだ、本当は。




妹に導かれて、母の亡骸と対面した。



母の顔は美しいままだった。シミひとつ無い肌、形の良い額、すっきりとした鼻、たるんでいない頬、卵型の顔、全てがいつもの母だった。

だけど触れると冷たくて固かった。



もの言わぬ母と会うのは初めてだ。



母は本当に死んでしまったのだ。

白い布団も顔に掛けられた布も、葬儀屋の用意したものに違いない。もうすっかり遺体として扱われているのだ。

昨日、私が電話をすると直ぐに出て「もしもしちゃん」とおどけた母は、こんなにも確かな遺体になっている。

こんな事ってあっても良いのか。







53歳にもなっていても、娘の私は母を求めている。

母が死んでしまった事は、受け入れられない事実だ。

母が生きていてくれるからこそ、私は夫や猫たちとの幸せな人生を安心して築いていられたのだ。

それは父の場合でも同じだけれど、母はまた特別に私の全ての根幹だったのだと感じる。





父は私の背骨を、そしてものの考え方や生き方、価値観や美意識をつくり上げてくれた。そして父は全力で私達を守ってくれていた。



しかし母は、私の血や肉そのものだ。

感情の全て、理屈を超えた全ての想い、欠点も長所もひっくるめた丸ごと全ての感性、細やかな部分に差し伸べられる温かい手のぬくもり、その手や胸に抱かれているという安堵感。

母というものは、何ものにも代え難い、永久に求め続けるこの安堵感なのではないだろうか。

きっと私は、生きている限り、母のこのぬくもりを求め続けるだろう。

母が死んでしまっても、私が生きている限り、私は母の子供のままで、ありのままの姿で母を求めるのだ。




久しぶりで会う親戚が、妹に親身になって駆け付けてくれていた事にも感謝しているが、それよりも妹には頼りになる友人がたくさんいた。

一昨年から妹が受けたインターフェロン治療の間にも、そして父の葬儀の時にも、妹は随分とその友人たちに助けられた事は知っている。

しかし今回、初めてその友人たちと会う事が出来て、心から安心した。

頼もしい大人として、そして思いやりと愛情のある仲間として、影になり日向になり妹を守り助けてくれている事がよく解った。



妹をかたときも一人にさせないよう、24時間何人かが交代で詰めてくれるつもりのようだった。それぞれ勤めや仕事もあるというのに。

姉がしてやりたくてしてやれない事を、この友人たちがより頼もしく務めてくれていた。

私の事情も妹から聞かされて知っているようで、私が少しでも安心して横浜に戻れるよう、力一杯約束してくれた。



この人達がついていてくれたら、妹は母の元に行ってしまうような事はないだろう。

妹を一人にさせたくない。

私のこの想いは、妹が父や母の近くに留まり生きる事を選択したのと同じ想いなのではないだろうか。

妹はその為にも自分の人生に一定の犠牲を強いて来た。





姉の私は好き勝手な人生を歩んで来た。それ故のリスクは自分で引き受けたけれど、何かを選択するにあたり、家族を考慮する事が無かった。

きちんと自立しているつもりだったけれど、そして何があろうと親に頼る事はしなかったけれど、心は全然親離れしていなかったのだ。





父にも母にも何も恩返し出来ないまま、どちらも相次いで逝ってしまった。

そして今度は妹にも、何もしてやれないでいる。



その事で過度に自分を責める事の無意味さも理解している。

妹も父母も、私の選択した生き方を支持してくれていたと思う。

だからこそ、私は石に齧りついてでも自分の生き方を全うしなければいけない。



それが父から受け継いだ背骨だ。

だけど一方では、母の情の深さと日々接して擦りこまれている妹に、私は守られようとしている。






「もう帰った方がいいよ」

妹は何度もそう言って、私達の出発を促した。



その頃には私も、ここに滞在せずに帰ろうという気持ちになっていた。

あの真っ暗な高速を、このまま寝ずにこうちゃんにまた走らせると思うと、私は一緒に帰るべきだと思った。

何もかもをこうちゃんに頼り、しかもここに居てもまた妹の足枷になってはいけない。

私には私の戦場があるのだから、そこに戻ろう。






妹を少し眠らせる為の「深夜番」である友人とは、17年前に会っていた。

その友人にくれぐれも妹をお願いして、私達は実家を離れた。







母とお別れをする事が出来た。

諦めるしかないのだという事を腑に落ちさせる為に、片道5時間掛けてとんぼ帰りしたのだ。

連続運転してくれたこうちゃんは勿論の事、助手席で運転手と同じ視線・気持ちでいた私にですらきつい道中だったけれど、その甲斐はあったと思いたい。




久しぶりで足を踏み入れた実家は、随分と変わっていた。



大きな庭木は手入れが大変だからと全て整理され、母が手を掛けている花が夜目にも美しく咲いていた。

母の葉書にも、今は何が咲いているなどといつも書かれていた。

今はシャガが見事だった。



トイレのスリッパは、身体の大きな父がいなくなり、母と妹だけが使うので小さいものだった。

そして綺麗なピンク色だった。





母がさっきまで生活していた息吹や体温がそこかしこに感じられる。

翌日に洗濯しようと思っていたであろう衣類、冷蔵庫の中には色んな手作りの惣菜が容器に入れられ綺麗に並べられていた。

こんなに美しい冷蔵庫の中を私は見た事が無い。



妹がその中からタッパーをひとつ取り出して「持って行く?」と訊いた。

「ママの料理が食べたいって(日記に)書いていたじゃない」



「食べられないよ」と言って私は泣いた。



母が生きていればこそ食べたい母の料理であって、母の死後に母の手料理を食べるなんて辛すぎる。

同じくそれは辛いであろう妹だとは思うけれど、それは妹の為に母がせっせと作ったものなのだから、妹よ、悲しみが増すだけなのは解るけど、それは貴女が食べなさいよね。

ごめんね、お姉ちゃんは逃げてばかりで。





キッチンには使い込まれたオープンや、小さな母の背丈に合わせて作った我が家のものよりかなり低い高さの古いシステムキッチン、よく使っていたであろう揚げ物鍋。

仏間にある小さな食器棚には、来客用のカップや茶碗が綺麗に並べられていた。

母のハンドバッグ、母の眼鏡、母の携帯・・・何を見ても悲しみを呼び起こすだけだった。




ふと思い出して、母が私の為に縫ってくれていたはずの、残りの4枚の雑巾を探す。

送るばかりになっているだろうと思って探したら、どこにも無い。

妹が「後で探して送るから」と言っても、私は諦めきれなかった。


そして洗濯室の室内物干しを見て発見。

母はまた、縫い終えてからノリ抜きをしてくれていたのだ。この後、軽くアイロンを掛けてから妹に託すつもりだったのだろう。

手早くそれを取り込ませて戴く。



手洗いでノリ抜きされた手ぬぐいの雑巾は柔らかい感触で、生前の母の手そのものだった。

良いものが好きだった母にとっては不本意だろうが、私にはこの雑巾が一番の母の形見になるだろう。

着物でも指輪やお道具でもなくて、手縫いの10枚の雑巾が。





でも、私にはどうしても気になるのだ。

あのタイミングで何故、母は雑巾など縫う気になったのだろう。

しかも10枚縫おうとしたのだろう。



物事を考え過ぎてはいけない。

だけど母の人生と娘への想いを全て一針一針に縫い込めて、母の代わりに私の日常を助けてくれる使い勝手の良い雑巾を私に残してくれたのではないだろうか。



この雑巾は、母そのものだ。

そう思っても母は許してくれるだろう。

もっと高級なものじゃなくて申し訳ないのだけれど。




実家を出発したのは、午前1時半頃。

たった1時間半ほどしか滞在していなかった事になるのだが、それは物凄く長い時間に感じていた。



その後の事は、翌日の日記に続ける。
ママと私

Apr. 27, 2011
ママと私

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