2011年 《CAT'S EYES & CAT'S HANDS》 猫雑記
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ママと私

赤城山登山にて

Apr. 28,2011
2011年4月28日 木曜日

日付が変わった4月28日の午前1時半頃、ママと妹に別れを告げて横浜への帰路につく。



もしかしたら、あの家に足を踏み入れる事はもう無いかも知れない。

当然の事とは言え、家中に母が生き生きとした様子で、そしてものを考え感じながら暮らしていた気配がまざまざと感じられて、それを感じるのが辛い。



あの家は家族みんなの思い出が詰まった家ではあったけれど、母の家だったのだ。

父が設計し、主婦である母が切り盛りしていた家だ。



母の意向で洗濯場を作り、洗濯機にはお湯が注がれるように作られた。当時は洗濯石鹸は粉しか無かったので、冷たい水では溶け残りがあって厭だったのだろう。

そして汚れ落ちも、水の温度が高い方が良いと母は考えていたのだろう。



洗濯機の脇には深いシンクが作られた。洗濯マメで潔癖症な母が、洗濯物を洗濯機に入れる前に手洗いする為のシンクだ。

これで物干し場がそこに隣接していたならば、母も言う事が無かっただろうに。



その後何度も建て増しや改築がなされ、家はどんどん「母仕様」となって行った。母の生活そのものがあの家であり、母の想いや考えがより母にフィットするように家を変えて行ったのだ。

そしてつい数日前まで元気で日々の生活を考え、工夫して暮らしを組み立てていた気配が、家具の配置や道具のあれこれから立ちのぼっている。



そんな家に、どうしてヘコタレの私が居られるだろう。

妹だって、それこそ19であの家を出て以来一度もあそこで暮らした事の無い姉と違って、あそこは母との思い出がぎっしりと詰まった家だ。

妹があの家で一人で暮らすようになるとしたら、私よりもっと辛いだろう。

母が一人のときに死んでいったあの家に、妹が一人で住む事に私は反対だ。



ともあれ、私ばかり辛い事から逃げていてごめん、妹よ。




帰り道も「東北道」を選んだ。

深夜なので空いていると思いきや、車はまだたくさん走っていた。

それでも渋滞は一か所も無く、途中でトイレ休憩に入ったサービスエリアはガラガラに空いていた。

午前2時半だものね。



但し大型車の駐車スペースは満杯だ。

長距離トラックのドライパーは仮眠をとっているのだろうか。



こうちゃんにも仮眠させたいのだが、朝の猫家事の時間までには帰宅したいと言い張り、コーヒーを飲んだだけの休憩しかとらなかった。



途中、激しく雨が落ちて来る事もあったけれど、首都高に入った頃にはまた粉糠雨になってくれた。

「パパが守ってくれているよなあ・・・」とこうちゃんが呟く。






私も一刻も早く猫たちの待つ家に帰りたかった。

母と妹を置いて家を出て来たからには、私が守るべき猫たちへの責任をしっかりと果たしたい。



だけどスピードを抑えて、安全運転に徹して貰わなければ。

まだ風も強く、時々ハンドルをとられそうになる。

こうちゃんが緊張して運転しているのが解る。

かなり疲れているだろうし、当然眠いはずだ。

それを振り払うには、緊張するものなのだ。居眠り運転や注意力散漫になるなどという事が、この人には考えられない。

それ位、いつも緊張を自分に強いて、隙の無い生き方をしている。



誰かに似ている。

そうか、母に似ているんだ。

顔だちも皮膚感も、こうちゃんと母は似ている。最初に出会った時から、そう感じていた。



どうかお願いだから、ある日突然、私を置いてポックリと死なないでね、こうちゃん。

そうならない為にも、もっと力を抜いていい加減に生きてよ。






運転を代わってあげたくとも、今の私は足首や膝が痛くてペダルを踏ん張れないし、指の関節がバカになっていてハンドルをちゃんと握れない。

しかも今の鎮痛剤を飲んでいる時は、車の運転は厳禁なのだ。



この前にインプレッサで来た時は、帰りは私が運転したんだったっけね。

もう昔の出来事になってしまった。

あんなに運転が大好きだったのに、もう運転出来ない。







日吉に到着した頃、ちょうど空が白んで来た。

新しい朝が来る。

どんなに悲しい時だろうと朝はちゃんとやって来る事を、ミュウが死んだ時にもカワムラさんが死んだ時にも思い知っていた。







お疲れ様、そして無理をしてくれて有り難う、こうちゃん。

寝ずに朝まで運転させて、物凄く疲れたでしょうね、きっと。





そしてそのまま、もう朝の猫家事がスタートするのだ。

当然の事ながらトイレにはウンコが一杯、砂は床に掻き出されて撒き散らしたようになっているし、ゴマが枕トイレでオシッコしているのもいつもの事だし、ジャムは長時間の私達の不在を怒っていた。



みんな、ごめんね。

お祖母ちゃん、死んじゃったんだよ。ジャムもアンちゃんも会ったでしょ?

言っているうちにまた涙と鼻水が滝のように落ちる。



泣きながら洗濯をし、床を拭く。母の縫ってくれた雑巾で。





そしてコーヒーと抹茶パウンドケーキ、ティラミスで朝ご飯にした。

疲れているせいか、無性に甘いものが欲しかった。





このまま一日の始まりだ。

だけど少しは休ませなくちゃ、こうちゃんだけは。



私は眠れそうもなかったのだけど、6時に定時の鎮痛剤を飲んだらドロドロに眠くなった。

何も考えずに眠れるのは有り難い。ママの事も、妹の事も・・・




1時間ほど眠ったら目が覚めて、これは現実なんだとまた思い出す。

母が死んでしまったのに庭なんかどうでもいいや・・・という気持ちにもなりかけたけれど、母がきちんと手入れしていた実家の庭を思い出して、私もきちんとしなきゃ・・・と思い直した。

母の娘として恥かしくないように、最低限の事はちゃんとやろう。





改めて、母は強いと思った。

父の亡き後でも、3食きちんと作って食べ、庭の手入れをし、日常生活を規則正しくしっかりと送っていたのだから。

それは毎日の電話でも解っていたが、実家の様子を見て更に確信した。

母は意志も生き方の美意識も強いのだ。



最愛の夫を亡くして悲しいに決まっているし、広い家で一人暮らすのは寂しいに決まっている。

それでもそういうマイナスの感情は誰にも(娘にすら)見せず、いつも通りの生活を送っていた。

晩ご飯を食べに毎日通ってくれる妹の存在が、母をどれだけ支えてくれていただろう。

母が私の電話を切ってまで、毎晩の妹からの「帰るコール」を楽しみにしていた事でも、それは良く解る。

母は、常に誰かに尽くしていないとならない一生だったのだ。






私ならこうちゃんに先立たれもした日には、もう何もかもどうなってもいい・・・とヤケクソになるに違いない。

お腹が空いて気が向けば何か作って食べるかも知れないけれど、とても毎食を規則正しく摂るなんて出来ないだろう。

庭木に水なんかやらないかも知れない。

だってこの世の終わりと同じ事なんだもの、私にとっては。



その時、猫たちが居なかったら、もう何もしないで過ごすだろう。

もはや限界・・・というところに堕ちるまで。

自殺はしないと思うけれど、母のように突然眠りながら死ねるならば是非そうありたいと思う。

お迎えに来てね、こうちゃん。





いや、こうちゃんは私よりも長く生きてくれなければ困るのだ。

私はもう、身内に先立たれるのは嫌だ。

妹もこうちゃんも、私を見送ってから死んで欲しい。





おっと、話が飛躍し過ぎたかな。



今ある状況下で精一杯の事をする。

それが母から学ぶべき事なんじゃないのか。



だから顔を洗い、鼻をかみ、気持ちを奮い立たせて庭掃除や植木の点検をする。

昨夜の雨は大した事なくて、軒下の鉢植えは乾いている。水もやらなければならない。




どの植木にも、どんどん柔らかな新芽が出て来ている。

1日で見違えてしまう程、その変化は凄い。





水やりをしてから木々の若葉の成長を点検していると、1匹のモンシロ蝶がヒラヒラと飛んで来た。

やけに私にまとわりつくかと思えば、庭のあちこちを散策するように飛び回る。



ハッとした。

この蝶はママだ。

ママが来てくれたんだ。






あの大地震がなければ、3月末か4月の初め頃には、桜の花が一杯の時に、私達の丹精した庭を見に来てくれるはずだった。

地震後の計画停電や節電のせいで、直通の東武の急行が運転中止になってしまっていた。

そうなるとあまりにも交通の便が悪く、こちらへは簡単に来られなくなっていたのだ。

そのうち回復するよね・・・そうしたら会えるね・・・そう言っていたのに、ママは日吉に来ないでパパの元に行ってしまった。





母は端正な美しい人だったからアゲハ蝶なのかと思ったら、モンシロ蝶になったんだね。

そして約束通り、私の庭に来てくれたんだよね。



そう思った途端、涙が滝のように落ちて来た。

こうちゃんに肩を抱かれて声をあげて泣いた。






バカな事を・・・と思われても仕方ない。

でも、母の魂は私のところにもちゃんとやって来てくれている。





私は大丈夫だよ、ママ。

ママがいなくてどれだけ悲しくても、私と猫たちをを守る為に生きているようなこうちゃんと、こんな私を誰よりも求め必要としてくれている猫たちがいるから。

ママはユキエを守ってね、パパと一緒に。




「大丈夫だよ、カズエちゃん」

母は、あの時そう言って抱きしめてくれた。

私が大学に通う為に一人暮らしを始める初日の晩、心細くて布団の中で泣いた時だ。



翌日の入学式に同席する為、母が一緒に上京していた。

古くて狭い4畳半のアパートには、布団が1組しか敷けない。

私と母は、生まれてから記憶にない位に珍しい事に、ひとつ布団で寝ていた。



実家と比べて余りにも粗末なアパート。

勉強机兼唯一の暖房器具である炬燵を上げなければ、布団も敷けなかった。

入口のところにある流し台は狭く、ガスコンロも1口でマッチで点火するものだった。



粗末な部屋に一人で住む事になる不安も勿論だけど、明日の式が終われば母は帰ってしまう。

どうにも堪え難い寂しさのせいで、叱られても泣かない強気で強情な子供でずっと通して来た私なのに、布団の中で母に背を向けて何も言わずにすすり泣いた。

その時に、母が言った言葉だった。

「大丈夫だよ、カズエちゃん」





何も言わなくても、私の不安や寂しさを母は察してくれていたのだろう。

母は姑の介護、舅の介護と立て続けに寝たきりの介護があり、その前は小姑も同居していたり、嫁としてとても忙しく、気の緩められない立場だった。

だから私は母とべったり過ごした記憶など無い。

妹が生まれてからは、ママはもう私のママじゃない・・・と思う程に僻んでいたかも知れない。



あの頃の母が異常に厳しかったのは、嫁として隙を見せられない環境だったせいだろう。母きいつもキリキリしていた。

だから母に抱きつくなんて事は、私の記憶には無い。

もし乳幼児期にあったとしても(写真の記録では確かにあるのだが)、2歳と10カ月を境に無くなっていた。

2歳10カ月で、妹が生まれたのだ。






今、私が母に「ママが生きていてくれなきゃ私は生きられない」と泣いてしがみついたら、きっと母はまた同じ事を言って抱きしめてくれるだろう。

「大丈夫だよ、カズエちゃん」






母への唯一つの恩返しが出来るとしたら、安心して父の元に行って貰える事だけだろう。

最後の電話の時にも、私の身体を心配し続けていた母。

検診の日には、必ず「病院、どうだった?」と心配して聞くし、「なるべくマッサージに行きなよね」としつこい位に言っていた。

「私より先に死ぬような事があったら困りますよ」と口癖のように言っていた母。





大丈夫だよ、ママ。

私はママを見習ってちゃんと生きる努力をするつもりだし、私を守ってくれているパパの魂も感じているし、何よりも私を現実世界で守り続けてくれるこうちゃんがいるんだから。

こうちゃんという伴侶を得た事は、最大にして唯一の親孝行だったよね。






ちぉんと食事も作っているし、ちゃんと食べている。

母から貰ってケフィア菌でヨーグルトが出来ていたよ、帰宅したら。

母の縫ってくれた雑巾で、今夜も拭き掃除をしたよ。泣きながら、鼻水を垂らしながら。







こんなに早く、何一つ世話を掛けずに逝ってしまうなんて、ひどいよ、ママ。

どれだけの時間が過ぎれば、私は泣かずに暮らせるのだろう。

でも、泣きながらでも、やる事はやるよ。

ママの娘だからね。





当分は母の思い出ばかり書いてしまうと思うけれど、それが一番自然な心の状態なので、無理にええかっこしぃして封印してしまう事は無いだろう。

母の通夜にも葬儀にも出られないから、そうやって私一人で母を送る儀式とする。
ママと私

ピクニックにて

Apr. 28,2011

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