ゴマ
太って見えるけど実はガリガリ
Feb. 24, 2012 |
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2012年2月24日 金曜日
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一日だけの春 |
晴れて、いきなり春のように暖かい。
3月下旬か4月上旬の気温だと言うが、どうなっているのか。
暖かいのは嬉しいが、滅茶苦茶ではないか、最近の気象は。
この暖かさ、1日だけの贈り物だそうだ。
エアコンもガスファンヒーターも止めて、オイルヒーターと湯たんぽだけにする。
よかった、やっとガスを全部止める事が出来た。
月に一度のこの課題、寒過ぎてとても実行出来ないかと思ったけれど。
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気の弱いアホな姉妹、でも妹は姉よりも大人になってしまう |
夜、妹と電話で話す。
毎日、生存確認で声を聞けるだけで良いのだが、話題次第では長々と話し込む事もある。
今日は子供の頃の思い出話で盛り上がった。
盛り上がると言っても、悔しかった思い出だ。
妹も私も何か悔しい事や思いがけない他人の悪意や強い出方に出くわすと、どう反応して良いのか解らなくなって、しかも争うのが嫌で、曖昧におどけてやり過ごしてしまう。
後々、どうしてこう言えなかったんだろう?というような気持ちになるが、何十年も経過してしまっている。
気が弱いのかバカなのか。
でも、そこで言い返さず自分がバカにされて場をやり過ごす事も必要な時があるのだと思う。
闘ってでも守らなければならない程の事ではない。
そして相手によっては、闘う価値など無いケースが多いのも事実だ。
勿論、闘うべき時に闘う事も大事だ。
それはそれで肝に銘じている。
敵を作りたくないというだけで、良い人に思われたいだけで、闘う事を避けるつもりもない。
でも、闘うからには闘った意味が無いと虚しいだけだ。
闘うとは、価値観や感性の違う相手に自分の感性や価値観を認めさせるという事でもある。
相手の価値観や感性を変えさせることまでは出来ないとしても(そこまで望むのは殆どの場合無理だし不遜でもある)、こちらの価値観や感性もそれはそれで尊重されるべきものであると認めさせる(もしくは認めて戴く)、と同時にこちらも相手の価値観や存在意義を認めるところまでは闘うべき時もある。
それは一種の社会性であり、互いに寛容である為の闘いだ。
物凄いエネルギーと行き当たりばったりではない意志の力が要る。
行きずりの他人にまで、いちいちそれを発揮してエネルギーを費やすのか、それともやり合う価値の無い相手として流すのか・・・そのあたりのコントロールが出来てくるのが大人なのだろう。
妹は大人だ。
多分、自分の感性を表に出して強く自分を主張出来る相手というのは、姉の私とダイちゃん位のものではないだろうか。
母が死んでから、妹は私とダイちゃん以外の人間相手に涙を見せた事すらない。
人の悪口も言わない。
他人に対して厭味も言わない。
他人が不愉快になるような言い方や表情もしない。
いつも心からの笑顔で接し、謙虚に、相手を尊重した態度に出る。
だけど、それだからと言っておとなしくて優しいだけの妹ではないという事は、私が一番良く知っている。
妹には恐ろしい程強い感受性と、それをコントロールするだけの意志、そして訓練され尽くした社会性がある。
ああいう娘を雇った経営者は幸いである。
いや、それとも根っからバカで可愛い娘を雇う方が気楽なのだろうか?
妹だってもう娘と呼ぶには歳を撮り過ぎているが、見た目はいかにも可憐なお嬢さんだ、図々しくも。
隣の口うるさいオバサンも、実家に戻る事になりますので・・・と挨拶に行くと、「器量も良いのにお嫁に行かないで勿体ないねえ」と言われたそうだ。
これが私だったら、そういう事は間違っても言われないだろう。
しかし妹が仮に結婚したとしても、「お嫁に行く」という表現には違和感があるような歳なのだ。
いや、失礼。
妹に失礼なのではなくて(私と妹の間に失礼もへったくれもない)、50歳60歳70歳でお嫁に行っている感覚の人達もいるだろうが、その方々に対してはお詫びします。
どうぞ「お嫁」に行って下さい。
これはあくまでも私個人の感覚なので、不快に思われる方もあるかも知れないけれど、それをいちいち恐れていたらインターネット上で日記など晒せない。
それに人権侵害しているという程の意見ではない。
「お嫁に行く」という言葉の持つ雰囲気が、年齢や性格に合うか合わないか、私個人が私と妹限定で言っているだけだ。
因みに私は今の婚姻生活に入った際、婚姻届を出し、軽井沢で保養中の義父母と義姉のところに私達当人と私の両親と妹が出向き、うな重を食べただけ。
お祝いも結婚式も披露宴も新婚旅行も無し。
双方の家族の、儀礼的な顔合わせだけだ。
私はこの家に「お嫁に来た」とは思っていないし、こうちゃんのお嫁さんになったという感覚は無い。
しかしご近所に「カワグチさんのお嫁さん」と呼ばれれば、ニコニコヘラヘラ笑って返事をする。
私はお嫁さんじゃありませんので・・・などとは勿論言わない。
それは私の中での感覚の問題を言っているだけであって、他人がどういう感覚を持とうがどういう表現をしようが、それは私の関心事ではないのだから。
他人から呼ばれる場合、それが余程侮蔑的なものでない限りは、どう呼ばれようと構わない。
そんなものは記号でしかないと思うから。
相手が心の中でどう感じているのかも、どうでも良い。
但し、お互いに敵ではない事を伝え合うだけの礼儀と挨拶は大事だと思う。
挨拶とは、私は貴方の敵ではありませんよ・・・という気持ちの表れだ。
無暗に敵だらけになる必要など無いし、それでは物騒で仕方ない。
昔の戦場で「やあやあ我こそは・・・」とやるのは、味方同士で殺し合わない為の儀式なのだろう。
物騒な世の中になった。
混雑する駅の通路に座り込んでいる74歳のお婆さんを見ただけで、「じろじろみられて見張られていると思った」と包丁で刺される事件がある世の中だ。
まあ、これはここまで危険な精神病患者に外泊許可を出す病院にも責任があうると思うが。
兎も角、他人を敵と看做す他人がどこに居るか解らない。
へらへら笑って、すれ違う人全てに挨拶する事など出来ないだろう。
人が多過ぎる都会では、誰が敵になるか予測がつかない。
まあこれは問題が少し違うのだが。
心を病む人が昔と比べて多くなっているのかどうかも解らないが、心を病む誘因がどこにあるのか、それが社会の変遷や価値観の多様化、情報の氾濫とどう関係しているのか、専門家が研究したって、その結果が正しい共限らない。
こんなに混沌とした世の中で無事に生きるには、自分を出さない事が寛容なのか。
それとも運だけなのか。
私の中でも混沌とした問題だ。
でも、根が単純なので、そんな事は思いつくまま書いているだけで、別段悩みゃしない。
残りの人生はもうやりたい事をやりたいようにやる、但し節度をわきまえるよう心掛けて・・・そんなところかな、私が気をつけるべきは。
妹は私より遥かに多くの社会を相手にしている。
猫と猫関係の人達と仕事だけの私とは違う。
私は何だか、猫という繭の中に引き籠っているようだ。
親戚、母の友人関係、お寺さん、そして自分の友人関係と会社関係・・・妹は大人の世界で生きているんだ。
先日も、お墓の墓誌にはまだ戦死した父の兄の名前しか刻まれていない事に気づいて、祖父母と父母の名前を刻むように石屋さんに依頼したのだと言っていた。
私なんかもう、及びもしない「家」を守って行く意識だ。
それにしても、うちのお墓は知らない先祖の墓石も多いし、墓誌なんて面倒臭いものまで建てていたのか。
妹は、墓誌には自分の名前を最後に刻む余地を残しておくのだと言っていた。
誰が妹の名前をそこに刻むのか?
よし、お姉やんが彫刻刀で刻んでやるよ・・・とは言ったものの、私が生きている保証なんか全く無い。
生きていたとしても、もうボケているか、寝た切りかも知れないのだ。
子孫の居ない姉妹は、どこかうら悲しい。
み~んな居なくなって、あっちで勢揃い出来ればそれでよしとしなくちゃ。 |
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