2012年 CAT'S EYES & CAT'S HANDS 
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ペリー

え?崖っぷちなの?

May. 3, 2012
ペリー

2012年5月3日 木曜日

昨日から強い雨が降り続いて、この24時間ほどで随分と大量の雨が降ったようだ。

横浜でも土砂崩れがあったようだ。

磯子区の公園の斜面が崩落して、隣接する住宅に押し寄せたとか。

何十年も住んでいて、一度も崩落などした事の無い場所で、危険も指摘されていなかったと聞く。



読売新聞の記事にはこうある。

3日早朝には、横浜市神奈川区斎藤分町で斜面の上に立つ民家の土台部分の土砂が崩れ、下にある民家のブロック塀が一部壊れたほか、同市緑区で大雨のために倒れた木が電線を切断し、約1900世帯が一時停電する被害があった。

横浜市磯子区岡村の岡村公園の斜面が3日早朝に崩れた現場では、住民ら約20人がシャベルを使い、市道に流れ込んだ大量の土砂や樹木の片づけに追われた。

近くに住む会社員、**さん(61)によると、午前6時頃、雷の落ちる音で目が覚めた際、自宅が大きく揺れるような感じがしたという。

玄関を開けると、土砂が流れ込んできており、すぐに110番通報した。**さんは「公園の木を最近伐採し、そこに大雨が降ったのが原因かもしれない。とても怖かった」と話した。




つい先日、徹底的に伐採して斜面を裸にしてしまったうちの裏の公園だって同じ事じゃないのか。

斜面の上には、まさに崖っぷちに家が何軒も建っている。

怖くないのだろうか。

怖くないんだろうな。

だってその家からの要請もあって、斜面の藪を刈ったらしいから。






近くにある斜面はそこだけではない。

この辺りの家は皆、斜面に建っているのだ。

斜面に盛り土して石垣で土留めし、そこに家を建てている。

横浜や神戸、長崎のような港のある所は、海の際まで山が迫っている所が多いと言う。

それだけに山坂が多く、平地の方が少ないと言っても良い。






うちだって例外ではない。

しかもうちなんて、この辺りでは最も古い造成地に建つのだ。

耐震補強はしていない、大雨で地盤が崩落する危険性はある、もう怖くて堪らないよ。



だからと言って、どこか安全な所に引っ越せるかと言えば、今からではそれも無理。

全ての猫たちを無事見送った後ならば、最低限の着替えだけ持って、妹の家の廊下にでも居候させて貰おうか。

部屋のように広い廊下だもの。

そこはかつてのリビングだった場所だから、日当たりも良くて庭を見渡せる。






本当は、父の死後、妹は実家に戻るにあたり、父が建てた古い家を建て直して、母と二人で住むはずだった。

1階部分だけに寝室を2つ、ウォークイン・クローゼットも2つ、それぞれの客の為にリビングも2つ、まるで2世帯住宅のように造るはずだった大きな家に、結局一人で住む為の家を作ったので、1部屋ずつが大きい。

巨大な収納が一杯あって、いかにも便利そうだ。

浴室の窓からは近くの山が展望できる「パノラマ風呂」だ。

トイレでまた貧血を起こして倒れても、そのままトイレで寝ていられるほど広いらしい。

それならば寝具も持ち込んでおけと言ってやる。

妹の人生の総決算みたいな、妹の理想が具現化した家なんだろうな。





羨ましいかって?

羨ましいよ、そりゃあ。



私だって、自分の理想を詰め込んだ家を建てるのが夢だった。

キッチンの隣には家事室があり、そこには立ったままシーツにアイロンが掛けられるくらい大きな(昔のクリーニング屋にあるような)アイロン台があり、アイロンは勿論出しっ放しにしておける。

ミシン台が別にあり、当然ミシンも出しっ放しで良い。



ミシンで何を縫うと言うのか。

今では考えられないけれど、昔はカーテンくらい自分で縫っていたんだ。

洋服は縫えない。






その家事室はサンルームにもなっており、室内で洗濯物が大量に干せる。

掃除用具も買い置きの洗剤類も、タオルやベッドリネンの類も全て収納しておける大きな棚がある。





しかし猫が一杯いたら、1匹で隔離する必要も出て来るから、大部屋だけでなく細かい部屋もたくさん欲しいよね。

階段の上り下りは大変だから、平屋にたくさんの部屋が欲しいよ。






今では忙しくて、シーツにアイロンを掛けるなんて考えもしない。

アイロン台やミシン台には猫が乗ってしまうだろう。

もし家事室を猫を出入り禁止にしたら、ドアの向こうでギャーギャー騒ぐだろう。

特にジャムが。





家事を丁寧にしていた頃の夢であって、今はもう最低限度の家事しかしないから、家事室なんて要らない。

それよりは、掃除し易い猫部屋がたくさん欲しい。

今のこの家にだって猫部屋は6室あるけど、それでも足りない。

猫の出入りを禁止している掃除し難い部屋というのも1階と2階で1部屋ずつあるにはあるけど・・・ここも猫部屋にしたら、私達の人生は片付かない。

ま、それはまた追々。








だけど、もうそんな夢も何もかも諦めるから、ただ願うのは安全な家が欲しいという事だ。

地震や近くで土砂崩れがあっても、絶対に倒壊しない家でさえあれば、もう何も文句は言わない。

崖っぷちという程ではないものの、急斜面に盛り土した敷地なんて、きっと脆いに決まっている。






どうも私の人生、何につけいつも崖っぷちだな。

借金が無いだけで万々歳だ。





そしていつの日か、シンプルに、猫も家財道具も全て無くなる日が来て、それから死ななきゃ。
ぺリー

それは僕ちょっと・・・

May. 3, 2012
ペリー
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怖いかも

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ペリー
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でもイオ姉ちゃんと一種なら

May. 3, 2012
ペリー
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僕はどこでも良いよ

May. 3, 2012
ペリー
崖っぷちで思い出した。

先日、観た映画【泥の河】の、川っぷちに建つ家の光景とも重なり、何十年も前の多摩川の水害を思い出したのだ。



台風の豪雨で増水した多摩川の中へと、地面ごと家が次々と崩れ落ちた「狛江水害」の光景を思い出したのだ。

ドラマ「岸辺のアルバム」の中で観た光景だ。

夢にまで見そうな、余りにも恐ろしい光景だった。






そんな崖っぷちというか、川っぷちに家を建てるのはどうしてなんだろう。

怖くないのかな。

他に土地が無かったからなのかな。

私はただでさえ水が怖いので、川のギリギリのところになどとても住めない。

もしその時には、猫が40匹居ようが、絶対に引っ越すよ。







という事で、【泥の河】について、感想を忘れないうちに書き留めておく事にした。

本日、どうやら「崖っぷち」のキイワードで繋がってしまった。

ま、いいや。





この作品、白黒映画なのだが、そんなに古い時代の作品ではない。

「黄金の80年代」に入ったばかりの1981年の作品である。


泥の河(1981)


監督: 小栗康平
原作: 宮本輝 【泥の河】
脚本: 重森孝子
出演: 田村高廣
藤田弓子
朝原靖貴
加賀まりこ
桜井稔
柴田真生子
蟹江敬三
殿山泰司
芦屋雁之助

舞台は昭和31年、大阪のどこかの川の河口近くであろう。

河口近くはただでさえ上流から流れて来る土砂が堆積するところに持って来て、下水など完備していない時代で、川は汚染され尽くした感があり、モノクロ映画とは言え、その水は黒く濁っている。

ヘドロから発生したガスは、泡となって水面ではじけている。

あの時代は、大阪の川に限らず、東京の隅田川だって多摩川だって、河口に近づけば近づく程、魚も棲めない程に汚染されたヘドロの川だったんだ。



そんな泥の河の川っぺりに、しがみつくように建つみすぼらしい大衆食堂。

食堂を営むのは、あまり若くない亭主(田村高廣)とまだそれほど歳が行っていなそうな妻(藤田弓子)。

夫婦には一人息子がいる。



どうやらこの夫婦、何か訳ありのようだ。

夫には元々妻がいて、今の妻(藤田弓子)がその妻から夫を奪い取ったらしき事が解る。

夫はシベリアから復員し、心にまだ戦争をひきずっているようだが、その亭主が手にしている新聞には「もはや戦後ではない」と書かれている。

経済白書ではそう宣言されたものの、日本中がまだ貧しく、暗いモノクロの世界であった。

その事は、32年生まれの私でも知っている。





この息子「信雄」がある日ふとした事で出会い友達になるのが、向う岸に屋形船を舫ってそこで切らしている姉と弟だった。




信雄の父親も母親も、この姉弟を家(店)に入れて可愛がる。

姉弟の暮らしは相当に貧しく、学校にも行っていない。それどころか日々の暗いにも事欠くようだ。



ある日、姉弟の家である船に行った信雄は、姉弟の母親と会った。

それが加賀まりこだ。

最初、信雄と声だけのやりとりをしているのだが、こっちに回っておばちゃんに顔を見せて・・・と言う。

そして姿を現した母親は、一目で堅気の女ではないと解る。

白黒映画にも拘わらず、真っ赤な口紅を塗っていると感じさせる。


加賀まりこファンのオジサンたちは、この作品の加賀まりこが忘れられないと言う事が多い。

それほどに鮮烈であだっぽくて綺麗だ。

姉弟の母親は、その船で客をとっている売春婦なのだ。



多分、まだ子供の信雄にも、その怪しげな美しさは感じるのだろう。

信雄の無表情な演技の中に、戸惑いのような、不思議な感情が湧いたのが伝わって来る。





母親は自分の子供たちに良くしてくれている友達に、自分の身の上を語る。

本当は岡に上がって暮らしたいけど、これしか出来ないのだというような事を言う。

年端も行かない子供に話すような内容ではないだろうに・・・と思いながら観ていたが、子供にだから言えるんだと気づく。






主人公は少年「信雄」なのだが、彼をとりまく大人達にも背負っている重たいドラマチックな人生がある。

それぞれ貧しく、その日その日を凌ぐ為に精一杯生きている人達なのだが、その大人たちにもそれぞれ男と女の部分があり、それが垣間見えてくる。



その重たい部分が湿っぽく語られ過ぎず、巧い演出である。



前妻への後ろめたさもあり、突然何日も家を空けた夫と一緒にいるのではないかと思われる見えない相手に嫉妬する信雄の母親。

母親を演じる藤田弓子は、いかにも気の良い食堂の豆タヌキのようなオバチャンだけど、まだ若く、プリップリにはち切れんばかりの肉体を持った女なのだ。

しかし、その嫉妬ですらドロドロとしつこくは描かれず、いかにも大衆食堂の逞しいオバチャンらしいカラッとした素振りでそれを垣間見せるに留められている。

うっかりすると見過ごしてしまいそうな位、それぞれの背景は観る者のイマジネーションを試す。




まだ戦地での体験をひきずっている父親は、息子の友達「喜一」が歌う軍歌「戦友」を聴いて何を思ったのだろう。

もっと歌ってくれと少年に頼み、遠い目をする父親。



「ここはお国を何百里 離れて遠き満州の 赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下」



私が小学生の頃、この歌はみんなが知っていた。

誰に教わったというでもなく、昭和32年生まれの私でも知っており歌えた。

それ位ポピュラーだったのだ。






信雄と喜一は仲良くなり、天神祭に二人で行ったりもする。

何と言う事の無いエピソードがあるだけで、悪人も出て来なければ、さほどドラマチックな展開がある訳でもない。






この淡々とした物語のクライマックスは、やはり蟹に火を付けるシーンだろうか。

友達の家でもある船の上で、友達は「おもしろいものを見せてやるよ」と言って、蟹にランプの油に蟹を浸けて火を点ける。

泥の河の中でも獲れるらしい小さな蟹。

その蟹に次々と火を点ける。



「可哀相だよ」と信雄が止めるものの、喜一は「可哀相じゃない」と言ってやめない。



生理的にこういうシーンは嫌で、これだけで観るのをやめてしまおうかと思ったのだが、何とか思い留まった。



子供らしい残酷さであると言ってしまえばそれまでだが、もっと鬱屈した想いがそこには感じられる。

喜一の中に静かに燃えていた持って行き場の無い怒りのようなものを感じ、何ともいたたまれなかった。

貧しい身の上に対する怒り、学校にも行けない事への怒り、毎晩知らない男に春をひさいでいる母親への怒り、世の中への怒り・・・多分、子供の心にははっきりと形作られた怒りではなかったにしろ、それだけに捌け口は小さな蟹にしか求められなかったのかも知れない。



その蟹を追って船べりを伝って行くうちに、信雄は友達の母親が男に抱かれているところを見てしまう。

見られていると気づいた母親。

そっと後ずさりして、その場から離れる信雄。







翌日、船は黙って停留していた岸を離れ、どこかへと去って行った。

折角、親切にしてくれる一家と仲良くなり、息子にも良い友達が出来たのに、これはあの母親の、精一杯の魂の潔癖さからだったのだろうか。


ゆっくりと去って行く船を追う信雄。

終いには大声で友達の名を呼ぶが、最後まで友は顔を見せる事は無い。

それはこの家族が、泥の河にひっそりと沈んで生きている蟹のように生きて行くしかない今後を暗示しているかのようで、これもまた切ない。





日本がまだ貧しくてモノクロの時代だった頃の、その世の中でも底辺で生きていた人達の短い物語だ。

一人一人の想いは、手垢のついた言葉で語られないだけに切なく迫る。






子役の顔が良かった。

いまどきの天才子役といわれる子供と違い、表情も少なく、台詞まわしも決して達者ではないのだが、それだけにこの作品に沈み込んだ想いを雄弁に語っている気がする。

1981年という、そう昔ではない時代にも、こんな古い日本人の顔をした子供が役者をしていたのか。


向って右が信雄、左が友達の喜一。


単に暗いだけではない、何かしら救われる想いがするのは、人々が「良心」を持って精一杯生きているのが感じられるせいだろうか。

映画としての質も高く、今まで良く知らずに敬遠していた事が悔やまれた。

時間が足りず、何に感傷を感じるのか分析出来ないままだけれど、それもまたあるべき姿なのだろうと思った。

全てクリアになねものではないのだ、人の心は。









この映画を見て連鎖的に色々と思い出した。

私の子供時代には、まだまだバラックのような家に住む同級生もいたし、友達の父親はシベリアに長く抑留されていた事も聞いていた。

父だって戦地にまでは行かなかったものの、海軍に志願して厚木基地に配属されていたらしい。

復員して来た元兵隊さん達は、戦争について多くを語らない。

だから父親の経験であるにも拘わらず、娘の私も詳しくは知らないまま、父は死んでしまった。

もっと聞いておけば良かった。

父も母も戦争を知る世代だったのに、私はのうのうと育ち、ひたすら与えられるだけの子供だった。





しかしそんな私でも、貧しい時代を肌で感じて知っている。





差別されて友達がいなかった朝鮮人の姉妹が近くに住んでいて、祖母も母も差別をするような人ではなかったので、よく家に呼んで一緒に遊んだ。

人をもてなすのが好きで風呂好きの祖母は、姉妹をしょっちゅう風呂に入れてやっていた。

口の悪い祖母は、「アンタたちの足は糞かき棒みたいだね」と言った。

姉妹は痩せて、棒のような足は真っ黒に垢と泥で汚れていたのだ。

祖母は馬鹿にしてそう言ったのではない。

そんな境遇にある姉妹に、充分愛着を以てそう言ったのだと思う。



姉妹の両親は見た事が無かった。

多分、父親か母親がパチンコ屋で働いていたので、パチンコ屋の2階の小さな部屋に住んでいた。

一度行った事があるのだが、台所もトイレも無いただの四角い3畳ほどの部屋だった。

両親揃っていたのかどうかも知らない。



ある日、引っ越しするからと言って、姉妹がうちの玄関に姿を見せた。

妹の方は黙ったまま泣いていた。

お姉ちゃんの方が、私にお別れのプレゼントを差し出した。

安物の、薄い化繊のスカーフだった。

当時、よくあちこちのお母さんがミシンを踏んで縁かがりをしていたのを知っている。

けばけばしい原色の透けたスカーフで、手触りはチリチリしていた。





子供だった私は、姉妹の一家がどこに行ったのかも知らないし、そのスカーフもどうしたのかも覚えていない。

そういう事があったのを思い出しただけだ。



我が家だって別に金持ちではなかったけれど、祖父にも父にも収入があったので、暮らしには困らなかったと思う。

もっと先ず叱ったなら、もっと思慮深い思いやりのある子供になったのかも知れないが、生意気だったから色々と考えていたようでいて、社会人になるまでは殆どろくにものを考えておらず、自分の事ばかり考えていた。

だから、その後の人生で少しばかり苦労する羽目になったのかな。



あの姉妹が大人になってぺっぴんさんになり、私などより遥かに裕福な生活をしていると良いなと思う。

そして幸せに暮らしていて、私に安物のスカーフをくれた事なんかすっかり忘れているだろう。

当たり前だよね、半世紀近く昔の事なんだもの。
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