2014年6月11日 水曜日 (禁煙654日目)
今日も湿度が高い。
但し気温はそう高くないので、じっとりヒンヤリ。
勿論、室内は除湿しているよ。
寒くなると除湿機に切り替え、暑くなると冷房に替える。
その管理は忙しいし、とても長時間留守に出来ない。
一年中、猫の部屋は温度・湿度管理が命よ。
この努力、少しは解っているのかな、ガラちゃん?
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ガラ なによ~
Jun. 11, 2014
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ガラ 恩着せがましいのよね~
Jun. 11, 2014
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あ、スミマセン。
そうでした。
これは私が好きで勝手にやっている事でした。
ガラちゃんがして欲しいのは湿度管理なんかじゃなくて、「永久ナデナデ」だもんね。
今年も冷たいぜんざいを作り始めた。
小豆を水分多く煮て、控え目の甘さに仕立てる。
良く冷やして食べる。
美味しい。
冷やす前に、お餅を焼いてお汁粉にしてみた。
これも美味しい。
でも大量にしょっぱい物が食べたくなるのが困りものだ。
今日は、お汁粉と一緒に五目キンピラなます仕立てをたくさん食べた。
何がなます仕立てかと言うと、キンピラの仕上げに巣をたくさん掛けるだけなんだけどね。
この季節、酢をたくさん使うと傷み難いだろうと期待するのと、何たってさっぱりして美味しいよ。
秩父の生学校で、体育の授業のプールで死亡事故があった。
教師は監視していたと言うけれど、ちゃんと監視していたら、死亡する前に発見出来る。
一緒にプールに入っていた同級生にしても、何故直ぐに異変に気づかなかったのか不思議だ。
6年生だよ、1年生じゃないんだよ。
このニュースのお陰で、自分が小学校6年生の時のプールの時間を思い出した。
眼鏡の担任が眼鏡を掛けたままプールに入り、子供たちの手を取って泳ぎを指導していた。
そうあるべきだよね、プールの授業なんて。
だけど、私はプールが大嫌いだった。
あの水の塩素消毒の臭いも、水に顔を浸けるのも、その水の中で目を開けろと言われる事も、みんな嫌い。
なのに亡き母はプールも海も大好きで、兎に角、泳ぐ事が大好きだった。
それは個人の趣味の問題だから構わないが、逆らう事の出来ない子供時代には娘の私は大変迷惑を被った。
夏休みには毎日プールに連れて行かれ、行きたくもない海水浴にも、母の友人一家に便乗して行く羽目になった。
海なんか塩水がベタベタして大嫌いだ。
波打ち際に座っているだけで、砂が水着のお尻に入って来るのだ。
う~っ、思い出すだけで気持ち悪い。
なのに母ときたら、子供なんか置いて、どんどん沖へ泳いで行ってしまうんだ。
苦痛でしかなかった海水浴。
家で留守番して風呂にでも入っていた方がよほど楽しい。
しかし小学校の教師たちは、夏休み明けに日焼けしていない児童をバカにした。
どの学年の時の担任もそうだったよ。
6年生の時の福島先生だけは、褒めもしないけどバカにもしない、恐いけど公平な先生だった。
だけど1年生~5年生までのどの担任も、真っ黒に日焼けしていると、それだけで充実した夏休みを送ったという証として褒めていたね。
私が日焼けに於いて褒められるはずがない。
プールが嫌いなだけでなく、外で遊ばないのだから。
近くに同世代の子供が居なかったせいもあるけど、居たところで遊ばなかっただろう。
私は家に閉じこもって本を読んだり絵を描いたりしているのが好きだったのだ。
そういう子供が居ても良いじゃないか。
どうして教師は子供に対し、画一的に活発さを求めるのだろう。
泥遊びやプールで楽しめない子供がいたって、それはそれで個性として受け止めて欲しい。
でも私、カナヅチではないのだ。
母の「プール教育ママ」のお陰で、泳げるのだ、ちゃんと。
だけど嫌い。
中学に上がると、幸か不幸か健康診断で不整脈が発見されて、それを口実にプールは全て見学で通した。
高校では勿論、スクール水着すら買わなかった。
ニュースを聞きながら、この話をしていた。
「私、中学高校と一度もプールに入らなかったよ」
「俺も全部見学。プール大嫌い」
「こうちゃんは何を理由に見学したのよ?」
「結膜炎でプール入れませんって」
「それで済んだの?」
「済んだ」
こうちゃんは真面目で素直、学業も運動も優秀な生徒だったはずだし、さぞかし先生には信用されていたと思う。
でも、プールが嫌いだからって、嘘を言って見学していたんですよ~、先生。
蛇足になるけど、私だって体育全般が嫌いな訳ではない。
短距離走は早かったし、走り幅跳び・高跳びは得意だった。
マット運動は嫌い。
子供のくせに身体が固くて、開脚前転なんか全く出来なかった。
鉄棒も出来ない。
生まれてこの方、懸垂を一度も出来た事が無い。
でも球技は殆ど何でも好き。
だから運動が嫌いという訳ではないのだ。
でもプライベートの時間まで、プールに行ったり、外でパラパラ朝美回ったりするのは私には向いていなかったんだ。
だけどその事で、教師から私と言う子供の在り方を否定される必要があったのだろうか。
ダメな教師たちだと今では思っている。
だけど子供だった頃の私には、教師は絶対だった。
お勉強が出来ても、夏休み中に真っ黒に日焼けしていない私は子供らしくなくて、きっと教師に嫌われていたのだ。
いや、日焼けは単なる象徴だったのだと理解している。
私がピアノや絵なんか習っているのが、あの当時の地方の小学校教員には気に食わなかったのだ。
ある日、授業中に私が机の下で指を動かしていると叱られた事があった。
授業中にピアノの練習をするなと言うのだ。
それは徹底的に晒し者にするように、執拗に何度も何度も指摘され、揶揄された。
私はテストすればどの教科もほぼ満点で、机の下でエア・ピアノを弾いていたとしても、問題は無かったはずだ。
でも、弾いちゃいなかったんだ、あの時は。
教師の中に無自覚に存在していたコンプレックスが、私をスケープゴートにしたがったのだろう。
少しも忘れていないよ、先生。
でも別段、怨んじゃいない。
もっと大事な事が幾らでもあったし、直ぐに気分を直していた。
それにその程度の軽い「苛め」は、教師からも同級生からも幾らでも受けた。
私も苛める側にもなったし、中学生にもなれば先生の言う事が全てじゃないと知っていた。
もっと気になる事、もっと切ない事なんかも出来て行って、普通の娘として普通に育って行ったと思う。
未成年のうちは煙草も吸わず、スカート丈も普通、学生カバンは教科書と辞書で膨らみ、お弁当箱は大きく、化粧なんかもせず(いまだにしていないけど)、地味な真面目な学生だったよ、私は。
兎に角、今更思う事でも無いけれど、集団で学ぶ環境は、私はあまり向いていなかったと思う。
忍耐を学び、世の中には自分と違う個性や価値観を持つ人間が殆どであるという事を身を以て知る意味では、必要な期間だったのかも知れないとは思っているが、少しその「学び」の期間が長過ぎたと残念に思っている。
もっとやりたい勉強、伸ばして欲しい個性が他にあっただろうに。
でも、その分、母が様々な機会を与えてくれたんだ。
それが今更のように良く解った。
学校教育に足りない物を母は解っていたのだろう。
そして娘に可能な限り、選択肢を増やせる道を用意してやりたかったのだろう。
恵まれていたんだな、私。
だけど私は何ひとつ生かしていないよな。
それが一番の問題だけど、もう終わりも近いので、まあ今更もう悩まないよ。
気楽に行こう、へへ。 |
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