2015年3月11日 水曜日 |
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「3.11」から、今日で早や4年。
あの震災の事は思い出すと気持ちが落ち込む。
意外にも大きかった我が家の被害のせいばかりじゃない。
その後の異様な日々、それからひと月ちょっとで母が何の断りも無く突然死んでしまった、あの2011年。
長生きすればする程、どんどん悲しい事が積み重なり、厭世的になってしまいそうだ。
それでも生きて行かなければならない。
大人って悲しいね。
朝から晴れるが寒い。
今日は何も降りそうもないけど、こうも寒いと真冬のようだ。
日本のあちこちで積雪しているというのに、横浜は晴れててスミマセン。
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ナム ナニ謝ってんのよお
Mar. 11, 2015
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ナム 晴れてるのはママのせいじゃないでしょうよ
Mar. 11, 2015
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そうですけどね、ナムちゃん。
ナムちゃんの故郷では、昨日は大雪だったみたいよ。
ナムちゃんを助けてくれたお母さんは元気かなあ?
生きている間に、また会えるといいね。
郵便局に行った時に、駐車場で撮った写真。
本当は梅が綺麗だったので撮りたかったのだけど、車の出入りが多くて、ちっとも落ち着いて撮れなかった。
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郵便局の駐車場から隣の家を望む Mar. 11, 2015 |
白梅の後ろに、藁葺き屋根が見えている、それが母屋かな?
駐車場を出て、家の正面に回って撮ってみた。
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郵便局隣の古民家 Mar. 11, 2015 |
この藁葺き屋根の長屋門と母屋は昔の名主の屋敷らしい。
横浜市の有形文化財の指定を受けた際、修復されたと聞く。
近くにこんな所があるのに、いつも通り過ぎるだけだった。
たた慌しく暮らしていたけれど、どこに住んでいても、地元の郷土史を知ると面白いね。
今、何気なく「地元」と言ったけれど、この地に越して来て20年を過ぎた頃から、ようやく「地元」意識が持てて来た気がする。
私にとっては横浜が一番長くなってしまったんだな。
だからと言って決して「ハマッ子」ではない。
ハマッ子というのは、もっと港に近いエリアで何代も住んでいる人達というイメージだろう。
そもそも港北区は、横浜というより多摩丘陵の端っこで、行政区分としては横浜市というだけで、全く横浜の香りはしない。
別に「ハマッ子」になんかなりたかないけどね。
自称「江戸っ子」や「京都人」と同じで、「ハマッ子」というのも排他的な感じのする言葉で、村意識の強い嫌な言葉だ。
他所者の僻みですって?
まあ、僻みなら僻みでも良いけど、他所者に僻ませる事自体が厭味なものです。
所詮、村社会なんだってば、そういう地元意識は。
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テト ハマッ子でスミマセンねえ・・・
Mar. 11, 2015
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ああ、テト君は横浜生まれなんだっけね。
でもテトだつてハマッ子じゃないよ、港から遠いじゃん。
アンタも敢えて言うなら、多摩の田舎モンだよ。
そうなんだ、横浜と言うと、ご存知ない方はお洒落なブランドイメージをお持ちになる事が多いようで・・・。
けっ、大した事ありません。
ただの住所でしかありませんて。
鎖国していて開港するまでは、横浜なんてただの僻地、田舎だったのだ。
東京だって徳川家康が江戸に幕府を置くまでは、ただの荒れ地よ。
どこだって住めば都。
私のような流れ者は、そう思うしかない。
どこへ写り住もうと、そうそう地元民になどなれない。
だけど、どこで死にたいか・・・時々そういう事も考えちゃう、そんな歳になったなあ・・・
出来れば私は、群馬の故郷の山が見えるところで最期の時を過ごしたいけど、それが叶うかどうかは解らない。
と言うより、それを叶える事は果たして本当に幸せな事なのかどうか解らない。
既に失われてしまった故郷のイメージや亡き父・母への郷愁が、そんな事を夢見させるだけなのではないか。
もはやここで根を下ろしたいけれど、子孫も残さずに根を下ろすも何も無いもんだ。
根なし草で終わるんだな。
中学生の頃に意味も無く憧れてみた「デラシネ」じゃん。
きっと解る人には解るでしょう、デラシネという言葉をどこで覚えたか。
同じ時代を生きて、同じような文学に親しんだ人であればね。
ああ、もう、ゴマとジャムに1日中どこへも行けない位に時間をとられて、好きでしている事だし納得しちゃいるんだけど、時々ストレス溜まる!
美味しいものでも食べなきゃやってらんないよ。
夜はカツ丼だ!
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