2015年8月21日 金曜日 |
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朝から涼しい。
涼しいと言っても湿度は高く、不快指数は意外に高そう。
いっそ、眠っているジャムがビックリ飛び起きて床に降り、身体をペシャンコにして耳まで伏せてしまう位、バラバラザーザー音を立てて土砂降りになれば良いものを、今にも降りそうに曇っているだけで雨粒ひとつ落ちて来ない。
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ジャム 聞いてるよ、ジャムのウワサしてるでしょ?
Aug. 21, 2015
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ジャム ジャムは臆病じゃないもんね
Aug. 21, 2015
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ジャム おっきい音が嫌いなんだよ
Aug. 21, 2015
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解ってるよ、ジャムちゃん。
何があっても、パパかママが傍に居てやれるようにするから。
「3.11」の時は、留守にしていて、さぞかし恐ろしかっただろうね。
ゴメンね。
今朝、私たちがご飯を食べようとすると、それを待っていたかのようにゴマがウンコをした。
55時間振りでやっと出た。
どこも汚さず、抱き上げたまま無事に出せて一安心。
ジャムもアンちゃんもゴマのウンコに誘われるようにして、それぞれのお気に入りの場所で(ジャムはトイレとトイレの隙間に敷き詰めたペットシーツで、アンちゃんは常に問題なく猫トイレで)ウンコしてくれたものだから、久しぶりに気掛かり無く買い出しに出られた。
昨日は、幾らゴマをトイレに入れてもウンコせず、オシッコを2度も床でしてくれた。
他にもペットシーツを仕込んだ犬の躾用トイレや、猫のシステムトイレでもオシッコしたし、何しろ多飲多尿だから気が抜けないのだ。
「そろそろオシッコの時間だよ」とトイレに入れてもしてくれず、転げるようにして自力でトイレから出てしまったかと思うと、出たところでしてしまったり、前足だけトイレに入れて始めてしまったり・・・
色々と予防措置をしているけれど、部屋中にペットシーツを敷き詰める事も出来ない。
どこでするかは、ゴマ様のお心次第なのだ。
それでも時々、「そろそろオシッコしようね」とトイレに入れてやればちゃんと素直にトイレでそのままジャージャー始める事もあるので、私たちの努力や呼び掛けは無駄にはなっていないと思う。
ゴマの一生の最後の季節を、共に力を合わせ、濃い密度で生きて行くリズムすら合わせて過ごせる事は、実に幸せな関係だと思う。
ゴマとは最初の時から本当に本当に濃い関係で、とても血の通わない相手とは思えないよ。
これは昨日の昼ごはん。
この写真では、何だかさっぱり解らないでしょうね。
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パエリャ Aug. 21, 2015
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アサリ入りのスープスパゲッティの缶詰で、パエリャを炊いたのでした。
具らしいものと言えば、黄色と赤のパプリカだけ。
適度に火が通ったパプリカは、とても美味しい。
バジルはベランダから摘んで来て、食べる直前に上に散らしました。
魚介類を使いたいのはやまやまだけど、なにせ高いので、在庫だけで作りましたが、アサリのスープパスタソースの缶を使うとダシが効いていて、とても美味しく出来ます。
パエリャって、水加減と炊き上げの加減だけ心得れば、フライパンひとつ1で短時間に出来る、安くて美味しいメニューだと思います。
炊飯器でご飯を炊く時と比べると、火をつけてから蒸す時間も含め半分も掛からないかも・・・。
炊き上がった時に芯が残っていた場合は、酒か水を少し振って再度弱火に掛け、少し蒸らすと上手く炊けます。
大鍋にイカやエビなどもぶち込んで、キャンプなどの野外料理として作るにも適しているかも知れないな、パエリャって。
私はキャンプなんか行きませんけどね、もう。
ああ、でも、いつの日か家も家具もみんな手放して、軽自動車のキャンピングカーで放浪しながら暮らすってのも良いかなあ・・・
そういう放浪者を受け入れないところが多いだろうけどね、日本でも。
「ジプシー」とか「ロマ」のような移動型民族が、いまだにどこの国でも差別されているという事を、つい最近知ったばかりだ。
NHKの番組【世界で一番美しい瞬間(とき)】で、「サント・マリー・ド・ラ・メール(Saintes Maries de la Mer)」というアルルにある町のお祭りの様子と共に、「ロマ」の人たちが迫害を受けて来た事に少し触れていたのだ。
そこで「ロマ」を調べていて、「ジプシー」とどう違うのかなど、ざっと読んでみた。
現代の文明社会に於いてすら、差別がある事にショックを受けた。
いや、私が無知なだけなのだけど。
しかも「ジプシー」という呼称は、現在の日本では差別用語らしい。
知らない事がまだまだ多い。
「ロマ」は、ナチス政権からはユダヤ人のホロコーストと同様に虐殺の対象とされ、戦争中に約50万人のロマが殺害されたとされる事も最近知った。
しかも強制収容所への移送を待たず、現地で殺害されたものも多かったらしい。
最近では、1990年代の「コソボ紛争」では、セルビア人、アルバニア人の双方から迫害を受けている。
各国で自国の少数民族として認められず迫害を受けているのは、「ロマ」だけではない。
最近話題になった、ミャンマーの「ロヒンギャ」などもそうだし、世界中に、そして日本にだって「少数民族」とされるものがあるのだ。
少数民族という概念は何を全体とするかという枠組みの中で、相対的に少数からなる民族集団を指す。
従って、人種的な枠組みだけでなく、また「少数」とは言っても必ずしも数が少ないという事ではない。
中国には山のように少数民族と呼ばれる民族がいるし、「アーミッシュ」や「クルド人」、「アボリジニ」や、かつて「ラップ人」と呼ばれていて今では「サーミ人」と言われる人たち等、とても簡単には挙げきれない。
狭いと言われる日本であっても、地方によっては文化も言葉も習慣も気質も違っているし、同じ地方であっても隣合った家で伝統料理の味付けが違ったりもするのだから、個性や違いがある事は当然の事なのだ。
問題は、自分たちを主流として考えた時に、自分たちと異なるものを異端として恐れ、嫌い、或いはスケープゴートとして排除・迫害しようとする、人間の本質的なずるさ・弱さ・身勝手さだ。
その愚かな精神は、苛めの問題にも共通するだろうし、同じ少数派内に於いてすら、攻撃も「浄化」として為される「迫害・排除」もあるのだ。
人が複数集まると、何故そういう事態が必ず起きてしまうのか・・・つくづく嫌になる。
他人が自分と違う価値観を持つ事、他人が自分よりも良い暮らしをしたり高い評価を受ける事を、どうして許せないのか。
そろそろ色んなものから遮断されて「お籠り」してしまいたくなる。
だけど踏ん張って居続けなきゃいけないのだ、この俗世間に。
私も俗人だけど、他人を妬まない、陥れない、否定しないよういつも心掛けたいと思う。
むしろ他人の成功や幸せは有り難い、大変結構な事だと喜ぶべきなのだ。
だって幸せな人・満たされた人は大抵、他人におんぶして迷惑を掛けたりしないだろうから。
バエリャの話題が、ずいぶんと発展してしまった。
収拾がつかない。
もう少し勉強してみたい。
人間は自分の知らない物事や知らない価値、自分と異なる外観や文化を持つ人間を恐れるものだから、もっと知るべきなんだ、様々な価値や文化や人間、歴史を。
てな訳で、仕事の合間に私、独学で勉強する事にしました。
人生残り少ないけどね。
ま、いっか。
死ぬまで勉強だよ。
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