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2016年6月22日 水曜日 |
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霧雨が降り、今日もひんやりとしている。
ゴマ、午後12時30分、永眠。
ついにこの日がやって来てしまった。
昼までは、かろうじて息をしていた。
夜明け頃と朝に、2度少し食べたし、オシッコも何度かさせてくれた。
でも私達には解っていた。
おそらく今日がその日になると。
つい先日まで、もの凄く大きな声で鳴いて「うるさいよ、ゴマ」と言われていたのに、昨夜からは殆ど声も出さなかった。
それでも名前を呼ぶと、たまに小さな声で応えてくれた。
昔のように可愛い小さな声で「うぇ~い」と返事をするように。
無駄なエネルギーを使わせては可哀想なので、あまり呼ばない方が良いという気もしたし、呼び掛けていた方がゴマが安心するような気もしていた。
でも、そもそもそれが「無駄」と誰が言えるだろう。
ゴマはいつも私を求めていたし、愛し愛され、呼んで応えて、それがゴマと私とが共に生きている事の表れなんだ。
ゴマは私の声に応える。
「生きているよ」と言っているのか、「傍にいてね」と言っているのか、それとも「愛しているよ」と言っているのか。
きっとその全てだろう。
何もかもを包含した「うぇ~い」なのだ。
私たちはいつも迷う。
正解は誰にも解らない。
でもゴマは私の子供だから、全て私の責任で決めてやらなければいけないと心に誓っていた。
そして、その通りにして来た。
ゴマがこれまでの年月にちゃんと教えてくれて来た沢山の事をしっかり照らし合わせたら、ゴマと私の間にだけ通用する答を見つけられると信じて。
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ゴマ そうよ、解ってるでしょ
Jun. 22, 2016
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ゴマ ちゃんと教えてあげたわよね
Jun. 22, 2016
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ゴマ いろんな時があるんだから
Jun. 22, 2016
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ゴマ 受け入れるっきゃないの
Jun. 22, 2016
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そうだね、ゴマちゃん。
有り難う、ゴマ。
これを撮影した時にはまだ生きていて、目やにを取ってやると気持ち良かったのか、表情が穏やかになった。
可愛かったので、久し振りでゴマを撮影してみた。
死んでからの撮影はしていない。
もういいや、それは。
誰かに簡単に言える・答を聞けるような悩みや苦しみだったら、まだ楽なんだろう。
それでも人は喜びや悲しみを誰かと共有したがる。
そうせずにはいられないのかも知れないけれど。
どうかここでメタメタにならず、踏ん張れますように。
猫たちとは、それぞれの春も夏も共に過ごして来た。
喜びも幸せもたくさん与えて貰った。
今、晩秋の終わりを迎えて、次々と見送る事にたじろいでいてはいけない。
悲しみ・喪失感までを受け入れてこそ、ようやく共に生きた時が完結するのだ。
でも、ゴマを失った事が私にとってどういう事なのか、まだ良く解らない。
覚悟する期間は長くあったはずだ。
状態が悪くなり、年が越せないだろうと思ってから、何度もお正月を迎えられた。
目いっぱい、充分に介護させてくれた。
なのにゴマを失った事が怖くて堪らない。
ミュウのときもアインの時も、他のどの子の時も怖かったけれど、ゴマを失う時が来るとは考えられなかった。
ゴマはいつまでもずうっと生きているように考えていた。
バカだな、私。
まだまだこれからたくさんこういう怖い想いをするのだと考えると、頭がクラクラしてくる。
でも私達の選んだ道なのだ。
ゴマとの出会いが、こういう道を選ばせてくれたんだ。
有り難う、ゴマ。
必ず後から行くから、アカと待ってて下さい。
いつも旅立つ猫の為にお花を有り難うございます。
でもこの時期、お花はとても保たないので、ご辞退させて下さい。
とても頑張ったゴマを、どうか褒めてやって下さい。
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