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2016年12月17日 土曜日 |
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今朝も冷え込んだ。
だけど昼間は陽射しが暖かい。
冬は長くて寒くて嫌だけど、雪さえ降らなければまあいいや・・・と思おう。
そして今からもう春の訪れを待ち続けるのだ。
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ペロ 気が早いね
Dec. 17, 2016
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ペロ せっかちなんだね
Dec. 17, 2016
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ペロ 事をし損じないようにね
Dec. 17, 2016
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何よ、ペロ君、最近アンタ生意気じゃないの。
急いて事をし損じるのは、ママの専売特許よ。
そういう性格なんだもの、仕方ないじゃん。
だけど今はのんびりやろうと努めているよ。
焦ってバタバタと駆けている間に、ふと気づいたらもう死んでいた・・・なんて事も充分考えられるからね。
残りの「人生」という名のスルメは、じっくりしゃぶり尽くさないと勿体ないよね。
今までの人生では、固いスルメも殆ど噛まず、次々と飲み込んでいたような気がするよ。
一体この性格、誰に似たんだろう?
やっぱり母かな。
今夜の【ブラタモリ】の散策地は目黒だった。
懐かしい目黒・・・大学生の時の3年間と、その後も4年、合計7年ほど中目黒に住んだ。
3年間と4年間の間、8年間住んだのは、中目黒から歩いても直ぐの代官山だったので、本当に良く知っているエリアだ。
特に大学生の時の3年間というのは、濃厚に地元を味わい尽くした感がある。
地元の小売店、工夫して作った料理、歩き回ったあらゆる路地、通い詰めた図書館・・・全てが昨日の事のように蘇る。
だけどもう今では、街の様子は大幅に変化してしまって、私の知らない町になっているに違いないのだ。
とは言え、タモリの好きな「地形」まではそう変わっていない。
懐かしさでウズウズした。
ところで、番組を観た事がきっかけで、目黒にまつわる事で長年勘違いしていた事に気付いた。
ひとつは目黒駅から雅叙園に下りて行く急な長い坂、「行人坂」というのだけど、私は「こうじんざか」と読むのかと思い込んでいた。
きっと夏目漱石の小説「行人(こうじん)」にイメージを引っ張られてしまったせいだ。
素直にそのまま「ぎょうにんざか」と読むのね。
私は中目黒に住んでいたので、目黒駅からは「行人坂」ではなくて「権之助坂」か「茶屋坂」或いは名前の知らない坂をクネクネと行き当たりばったりで下りて行ったのだ。
遠回りになる「行人坂」には殆ど足を向けなかった。
一度、いつも不思議な想いで観ていた目黒川沿いの古い建物にどうしても興味があって見学をさせて貰った、建て替える前の昔の【雅叙園】。
川沿いに細長く建つ不思議な建物・・・屋根は緑青をふいた色をしていて、あれは何の建物なんだろう?といつも不思議な気持ちで眺めていた。
今、ネット上で画像を探したけれど、見つからなかった。
新しい雅叙園や庭園の画像ばかりで、あの川っ縁に建っていた長~い豪華な遊郭のような建て物の写真は無かった。
ひとつだけ古い絵があったので、これで感じが解るかなあ・・・
手前に描かれているのが目黒川で、私はその川のこっち側を歩いていて、いつも建物を眺めていたんだ。
あの頃にデジカメがあったらば・・・と悔しい。
私は大学生で、別に取材だとかの目的でもないのだけど、中を見学したいとお願いすると気軽に入らせてくれた。
目黒区の中学生だったこうちゃんも、やはり気軽に見学させて貰った事があると言っている。
立派な玄関を場違いな貧乏学生がちょっと気後れしながら歩いて行くと、長い廊下が続き、幾つもの個室は絢爛豪華な古めかしい装飾が施され、摩訶不思議な世界が広がっていたのだけど、それはまた別の話。
あの時に「行人坂」を通ったのが、後にも先にも一度きりだ。
私は別にお気に入りの坂道があって、いつもそっちを歩いた。
それが先述の「茶屋坂」で、道沿いには防衛庁の研究所の広大な敷地を囲む高いコンクリートの塀が続き、人通りが殆どなかった。
中は森のようになつているように見えた。
その茶屋坂を日傘をさして、暑い夏の日の午後、歩いて帰るのが好きだった。
可愛かった20歳の頃の私。
あの頃の時間も若さも、一切もはや戻らない。
当たり前だ。
勘違いのふたつ目は、通称「目黒不動尊」について。
バスで通学する時は、この不動尊の中を通る路線バスで行っていたから、この辺りの地理も良く知っていた。
このお寺は「龍泉寺」というらしいのだ。
ガ~ン!私、てっきり「五百羅漢寺」だと思っていたのだ。
五百羅漢寺は、隣だったのか。
今夜の今夜まで勘違いしていた事を2つも発見出来た。
まだまだ一杯あるんだろうな、間違って覚えている事なんて。
恥かしい。
でも気づかなければ恥ずかしくすらないのだけどね。
ま、生きて行くって事は、恥を重ねる事であるとも言えるよ。
恥を覚悟で日記なんか公開している訳だし、平気で生きるんだ、何があろうと。
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