2017年4月13日 木曜日 |
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昨日にも増して良いお天気。
今日は昼過ぎに区役所に行くので、午前中に仕事を済ませられるだけ済ませる。
ジャムもウンコしたし、その後バリバリと自発的に食べたし、アンちゃんの鼻水も今日は酷くないし、これは少し安心して家を空けられるぞ。
と言っても2時間が限度である事には変わりない。
それ以上の留守は、今はまだ無理だ。
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ジャム 2時間だって長過ぎだよ
Apr. 13, 2017
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ジャム ジャムを置いて出掛けるなんて・・・
Apr. 13, 2017
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仕方ないじゃないの、ジャムを連れて出掛ける訳に行かないんだし、ジャムだってお出掛けしたくないでしょうよ。
ジャムはママが24時間、ずーっとジャムを抱いていれば気が済むんでしょうけど、それではママもジャムも干上がってしまうんだよ。
解るかな、干上がるって意味。
解んないだろうね、ジャムもいまどきの猫だから。
区役所には、無料の法律相談に行って来た。
少し前から予約してあり、15分限定だけど専門家のアドバイスが受けられるというものだ。
法律相談などと言うと大袈裟だけど、要するに遺言書をどうするのがベストかという事を、専門家に相談してみる事にしたのだ。
法的に有効な遺言書が無い場合、遺産相続の手続きがいかに煩雑であるかご存知だろうか。
法定相続人が複数いる場合、その相続人全員の合意する内容を記した「遺産分割協議書」というものが必要で、勿論、それぞれの戸籍謄本も必要だし、被相続人(死んで遺産を残した人)が15歳からの戸籍を全て揃えなければならない。
この家をこうちゃんが父親から相続した時、その書類を揃えるのには大変な想いをした。
だから遺言がある相続にしたいとこうちゃんは言って、かなり前に遺言書を自書していたのだ。
しかし自筆の遺言書が効力を発するには、被相続人の死後、家庭裁判所で検認手続きが必要だという事は、あまり知られていないのではないだろうか。
その検認手続きには、遺産分割協議書を作った時くらいの煩雑さがあるらしい事も解って来た。
ならば公正証書遺言にしておいた方が、いざという時・・・それは私がもっと老いてから夫と死別した時だろう・・・その時に少しでも楽なのではないか。
という事で、専門家にちょっと相談したいと思ったのだ。
親切で察しの良い公証人で、15分で必要な事は全て聞く事が出来た。
そして、やはり公正証書遺言にしておいた方が良いと結論を出した。
あとは公証人役場に予約し、証人2人と若干の費用が必要なだけだ。
財産としては、預貯金や有価証券などは一切ない。
住んでいる家屋と土地だけが財産なのだ。
そしてその家も、こうちゃんと私の二人とも揃っているうちに処分して、妹の家に転がり込む・・・というのが近い将来の理想である事に変わりはない。
そして出来れば、こうちゃんより先に私が逝きたい。
だけどあの夏、元気だったこうちゃんがいきなり死に掛けたように、ある日突然私より先に死んでしまう事がこの先、万が一にもあるやも知れない。
その時、遺言書だけで相続の登記が完了出来るというのは、どれほど助かるか。
お金をいっぱい持っている人であれば、弁護士だろうが何だろうが頼んで全部やって貰えるだろうけど、うちはそうはいかない。
こうちゃんが相続した時も、登記の手続きも自分たちで全てやったのだ。
内容的には少しも難しい事ではない、書類を揃えるのが大変面倒なだけで。
そしてどのみち、この家は私が相続しても、一人で処分する事になるだろう。
妹がその時に元気でいれば、きっと手伝いに来てくれるだろうけど。
遺言書は、あくまでも保険だ。
二人で猫たちを全員見送った後、二人で頑張ってこの家を処分し、田舎で小さな生活をひっそりと送る・・・
それが私達夫婦の最後の理想である事に間違いはないのだ。
それを唯一の目標として、この先を生きるのだから。
出掛ける前に、「うちの公園」の桜を撮って来た。
今朝、ベランダの掃除をしていたら、昨日までは1枚も無かった桜の花弁が、ベランダに舞い降りていた。
ああ、遂に「終わり」が始まったか。
もう毎年同じ花を撮らなくてもいいよね、枝ぶりが寂しくなってしまった桜を撮るのは悲しくなるから・・・と言っていたのに、散り始めた花弁を見たら、やっぱり撮って来てしまったよ。
但し、おもちゃのデジカメなのでピントもイマイチですが、私の感動は伝わるかな。
桜の花のレースのカーテン越しに、綺麗な青空と真っ白い雲が見えて、何とも美しく爽やかな景色だった。
写真を撮っていたら、小さな女の子を連れた外国の女性が通り、「ビューティフル」と何度も言っていた。
桜の花は、人の心をこんなに幸せで満たしてくれる。
日本中で、束の間の、だけど確かな幸せを味わった数日間だったよね。
明日には一杯散っているだろう。
だけど枯葉が散る頃と違って、そんなに寂しくはないはずだ。
これからの若い緑の葉もまた美しいものだし、日毎に緑の濃くなる葉には、みなぎる生気を感じられる、これまた素晴らしい季節が訪れるのだから。
春を謳歌するという事の意味が、歳をとって来て初めて解る。
それはどう言葉を尽くして力説しようと、若い頃には理解出来ない喜びなのだ。
自分にはもはや2度と巡り来ない春の季節だけど、束の間、蘇りを感じさせる、光まばゆい再生の時。
この時を幸せと感じる事に、恥じらう必要などないだろう。
そして、いつかこの家を処分し、この土地を離れるかも知れないとしても、今をちゃんと自分の現実として楽しんで生きられなければ、それは辛い事だ
理想の状態に落ち着くまでの月日が「仮の状態」、「仮の宿」のようにしか感じられないようでは、何もかもが落ち着かない。
それでは生きている事が楽しくなくなってしまう。
私は多分、そういう性格なのだ。
落ち着くべき場所にさっさと収まってしまわないと、安心出来ないという性格。
近頃どうにもザワザワと胸騒ぎが続いていたのは、解決しようもない問題が山積しているせいなのか、愛するものの死が続いているせいなのか・・・
或いは、ここもいつか出て行く仮の宿なんだ、苦労して築き上げたこの住まいも、結局は終の棲家にはなり得なかったのだ・・・そう思ってしまった事で始まった虚しさだったのか。
ああ、ナンセンス。
家にこだわってしまうと不幸になる。
どこで暮らそうと、いずれどこかへ移ろうと、今のこの生活、この時間もまさに私の本番の人生なのだと常に考えていないとダメだ。
いつも言い聞かせていないと、簡単に甘ったれた方向に流されて、また胸がざわついてくるだろう。
私は家につく猫のような性格の子供だった。
自分の家というものにこだわりが強く、好んであちこち移住したくない。
なのに、ひとところに永住出来ない人生になってしまった。
生まれてからずっと同じ土地で生きている妹は、どんな人生なんだろう。
それはそれで、辛抱強くないと、そして色んな人や物事と折り合いを上手につけないと、とてもやっていられないのかも知れない。
そうだよ、私は暫く経つと直ぐに煮詰まってしまい、そういうものが鬱陶しくて、常に過去を断ち切って来た。
はい、ご破算にして願いましては・・・と(例えが古いけど)、いつも都合よく、新しく出直していたんじゃないか。
今更、それを虚しいと嘆いたりしたら卑怯というものだ。
苦労も多かったような気がするけど、結構、美味しい人生だったんじゃないの?
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