2017年5月12日 金曜日 |
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昨日も今日も、とても暑い。
しかも湿度も高くなって来たようだ。
先日、仙台の友達に手紙をしたためているうちに、どんどん気持ちが落ち込んでしまった。
ゴマの死について書いていたせいだ。
忙しさの中に紛れ、悲しみとはあまり長時間向き合わない事・・・それこそが私にとって前向きに生きて行けるコツだと気付き、ミュウを見送ってからこちら、それをずっと実践して来たはずだった。
それなのに、ふと気が緩んでしまっていたのか、真面目にゴマの事を書いてしまったら、もうダメだった。
ゴマを語るにはまだ早過ぎた。
そう気づいた時には手遅れで、どんどん気持ちが落ち込み、もう何もしたくなくなっていた。
これって軽く「鬱」かな。
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ペロ ふん、何言ってんのさ
May. 12 , 2017
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ペロ そんなの甘ったれてるからだよ
May. 12 , 2017
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ペロ しっかりしなよね
May. 12 , 2017
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そうでした、ペロ君、ママが甘えてました。
もう大丈夫、身も心も元気になったよ。
でも、数時間は回復出来なかった。
涙がボロボロ出て、身体が硬直してカチカチ、首も肩も背中も痛んだ。
ネガティヴな精神状態で、気が滞っていたのね。
やっぱりまともに悲しみと向き合ってはダメだ。
人によっては、ちゃっと向き合わない限り、いつまでも引きずると言う。
そういう人もいるだろうし、その人はそうすれば良い。
でも、おそらく・・・私は違うと思う。
何につけ考え始めると深く潜ってしまいがちで、一旦深みにはまったら気持ちの方向転換が出来なくなる。
他の事に考えも目も行かなくなり、精神や生活のバランスが崩れる。
一旦そうなってからだと、底まで沈まない限りは浮かんで行けない。
若い頃に何度かそういう思いをして、もうたくさんだと思った。
ちゃんと生活して行かないといけないとしたら、落ち込んでいられない。
経済的にも物理的にも、誰かが面倒見てくれるような身分ではないのだ。
だったら暗いものは見ない事だ。
悲しみとは正対しない事だ。
苦しみには耐えられる。
苦しいのは当たり前。
だけど悲しみは耐えようがない。
悲しみとは、こんなにも人の心を侵食するものなのだろうか。
だから悲しんではダメだというのが私の処世術になった。
うっかりゴマの死をまともに悲しんでしまった。
ゴマだけではない、たくさんの愛する我が子たちの死を、ただ淡々と傍に纏わりつかせておいて、しかもいちいち検証しないようにして私もいつか死ぬ。
それが一番なんだ。
そうでないと、これだけ沢山の猫を愛し、見送れない。
悲しみに叩きのめされ、押し潰されてしまうだろう。
感情の振れ幅が大きいと自覚しているから、そうして対処して行かないと悲しくて辛くて、いっそ死にたくなってしまうもの。
まだまだたくさんの子を見送り、こうちゃんともいつか(どちらかが死んで)お別れする事になると考えると、恐ろしくて堪らない。
そういう余生だけど、元気で楽しくありたい。
うん、どんなに落ち込んでしまったとしても、どこかで突破口を探してやるさ。
今日の突破口は、天婦羅だったかな。
今年もタラの芽を戴いた。
どう料理しようか少し考えたけど、やっぱり天婦羅だ。
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タラの芽の天婦羅 May. 12 , 2017
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う~ん、我ながら天婦羅上手。
ごくごく薄衣にしてサクサク、タラの芽はほっくりと甘く、感じるか感じないか程度に仄かな春の新芽のほろ苦さ。
美味しくて、いっぱい食べてしまった。
ゼロビールも飲んだけど、タラの芽の天婦羅だけでお腹いっぱいにするなんて、なんという贅沢。
因みに、天丼にする時は、もう少し衣を厚めにします。
タラの芽のように3次元で複雑な形をしているものは、濃い衣だと中の方にどっぷり衣が溜まってしまいがちなので、薄い衣にした方が上手く揚げられるのです。
そして美味しいものでお腹がいっぱいになって、幸せになりました。
これでよし。
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