2017年9月2日 土曜日 |
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涼しい。
昨夜は湿度もさほど高くなくて気温も低かったので、実に久し振りで冷房停めて寝た。
今日は陽が射してやや暑くなるが、それでも秋の陽射しに見える。
どこが違うのか。
夏のギラッとした陽射しとは違い、薄いベールが掛かったような、ほんの少し柔らかい陽射しなのだ。
それはそれで美しいのだけれど、寂しいなあ。
年々歳々、季節の移ろいが寂しく哀しく感じられるようになってきているのは、季節がまたひとつ進むと、自分の残り時間はまたググッと少なくなると思えてしまうせいだろう。
どうしてこんなにも「死」に取り憑かれているのかな。
いいや、取り憑かれているんじゃない。
死は自分にとっては遠い先に、まるで絵空事のように、あるかなしかのものだったけれど、歳をとると実感せざるを得ない。
父も母も死に、愛する我が子たちが次々と死に、同世代の仲間が相次いで死んでしまい、私達もいつ死んでもおかしくない事を自覚した。
死は、好むと好まざるとにかかわらず、とても身近なものになってしまった。
自分の寿命の砂時計の砂が、どんどん落ちて行くのが怖い。
だけど仕方ない、誰でも歳をとればこんなものだろうと推察する。
忙しさに紛れているだけで、秋の夜、独りで起きていたりすると、誰もがこんな風に考えるに違いないのだ、おそらく。
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アンダ アンちゃんは考えないよ~
Sep. 2 , 2017
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アンダ 考えても無駄だもん
Sep. 2 , 2017
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無駄と言えば無駄なんだけどね、アンちゃん。
だけどそう言ってしまっては、精神の営みが深まらないのよ、アンちゃん。
無駄な思索こそが文学よ。
無駄こそが文化、芸術なのよ。
でもママは現実に追われてばかりで、文化も芸術も関係ないよね。
最近は読むのも漫画ばかりだし。
これでも昔は絵を描き、ピアノを弾き、美術館にも通ったのよ、アンちゃん。
信じられないって?
ママだって信じられないよ。
一寸先は闇だって覚悟しているつもりでも、20年、40年と時が経つと、全く予想していない状態になっている事も多い。
離れて住む妹は、折に触れ都内のあちこちの美術館や博物館の企画展、そして観劇などに、実にマメに足を運んでいる。
姉は妹よりもずっと、そうした文化施設の近くに住んでいるというのに、全くと言えるほど行かないのだ。
猫がいる生活といない生活では、こういう部分に差が出て来る。
もはや別世界の話のようだ。
だから妹は姉に、いつも美術展のお土産やA4サイズの美しいリーフレットを送ってくれる。
文化と芸術の香りをちょっぴり嗅がせてやろうという、妹の思いやりだろう。
かつてお姉ちゃんは、スモックを着て画材を持って気取って歩いている美術少女だった(「美術少女」から「術」を抜いても良いのだけどね、私個人の願望としては)。
だから姉は当時、可愛い妹の可愛い同級生には人気があったのだ。
今の私の姿はもう見せられない。
お互いに酷い現実を思い知るよりも、思い出の中でひっそりと息をひそめ、静かに老後を送りたい。
しかしきっと、いつになってもバタバタしているんだろうな。
だってそうしていないと、生きていられないんだもの。
一寸先は闇で予想外の未来があったとしても、精神の在り様というか、向おうとする方向だけは変わらないでいたいと思う。
少なくとも今までは、変わってない。
この先、アルツハイマーや認知症になってまでどういう自分でいられるか自信は無いけれど、目指すものは変わらないつもりでいる。
潔いババアで死にたいよ。
土曜日だから、夕方からは【刑事フォイル】の再放送と、【ブラタモリ】を観る。
どちらも無いと、どれだけ味気ないだろう。
【ブラタモリ】は十和田湖と奥入瀬を訪ねていた。
亡き母の実家の壁に奥入瀬の写真だか絵だかの額が掛けられていて、林の中の清流の様子を不思議な想いで見たのを思い出す。
旅行好きの祖父が十和田に行った時、買って来たものだと聞いた。
その家のお茶室には、弥勒菩薩の頭部が掛けられていて、子供の頃はそれが怖くて仕方なかった。
お化けかと聞くと、あれはお化けじゃなくて綺麗な顔なんだよ・・・と祖母が言うのだけど、3歳かそこらの幼児に解るものではない。
今なら解る。
あの弥勒菩薩の頭は、どうしたんだろう?
私、形見にあれが欲しかったなあ・・・
いや、もうモノを欲しがってはいかん。
私がそろそろ形見分けをする事を考え始めないといけない歳なのだから。
だけど何だか寂しい、侘しいね。
死ぬまでモノに執着し続けるというのも哀しいけど、執着が無くなってしまうのも寂しいじゃないの。
執着や煩悩とは、生命力でもあるような気がするから。
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夜廻り猫 1,2巻
著者:深谷かほる |
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