2017年9月22日 金曜日 |
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ゴマを家に連れ帰ったのが、1999年の今日の事だった。
朝から台風接近による大雨で、朝のエサやりにゴマは姿を見せなかった。
夜、勤務先の近くに借りていた駐車場の周囲を、大雨の音の中でゴマの名を呼びながら探した。
私の駐車場の隣の敷地には別の小さな青空駐車場があり、そこに停めてあった大型4駆の車の陰から、ゴマが鳴きながら駆け寄って来た。
助けて!と聞こえた。
タイヤの陰には、びしょ濡れの産み落とされたばかりの子猫が3匹いた。
それまで野良猫の避妊や捕獲など思いもよらず、エサやりを始めてからも保護する決断が出来ずにいるうちに、子猫だったゴマのおなかはどんどん大きくなった。
そして土砂降りの中、遂に出産してしまったのだ。
あの晩、ゴマと赤ちゃん猫たちを連れ帰った時から、私の人生の方向は変わってしまった。
そうなる運命、宿命だったのだろう。
その後の事は、この日記のスタートからほとんど毎日、かなり具に記録し続けて来たので、改めて書かないし、書こうにも書けそうもない。
ゴマは素晴らしい猫で、そして昨年まで見事に生き切った。
今夜はゴマの夜だ。
有り難うゴマ。
そしてゴメンね、ゴマ。
死んだものに対して謝ってばかりだな、私の人生。
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2003年のゴマ 賢くて思慮深くて
Sep. 22 , 2017
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2003年のゴマ 可愛らしくて
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2003年のゴマ 小さくて
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2003年のゴマ 遥か遠くを見ていたよね
Sep. 22 , 2017
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やっと昔のゴマの写真を遡って眺める事が出来た。
なんて可愛くて美しいサビだったんだろう。
ゴマを失った事は、私の中に大きな穴を空けた。
それが埋まる事はもう無い。
もっと若ければいざ知らず、細胞がゆっくり蘇生して傷穴を塞ぐ前に、この歳では寿命がやって来てしまうだろうから。
だけど言葉や意識は、考え方の切り口や着想ひとつで違ってくるのだ。
ゴマは私の中に入り込んだだけなのだ。
ミュウやアインと共に。
勿論、ルス・リマやカワムラさん、トムやぶーちゃん、みーちゃん、他の全ての死んだ子たちも、全て全て私の中に。
そう考えて、今日も普通に過ごす。
それが賢いやり方だろう。
向かいの家を解体した空き地には、背の高い雑草がぼうぼう。
それが道にまで茂り始め、つる性の草は電柱や電線にまで魔の手を伸ばしてますますエリア拡大を図っている。
このままでは我が家にも押し寄せて来るだろう。
いつまでも家が建たないとこんな事になるのか。
ゴミが道まで溢れているゴミ屋敷よりはマシかも知れないけど、草ぼうぼうも酷い。
ひな壇の上の敷地なので、石垣の上の敷地は私の背丈よりも高い場所にある。
草のタネは降り注いで来ているのだろう。
どんどん増えるばかりだ。
誰も何も出来ないものなんだろうか。
所有者は九州在住(の老人)らしい。
空き家で放置されていたものは、県だか市の条例で所有者に連絡し、解体したらしいのだけど、草むしりまではしてくれないようだ。
せめて道路や電柱を侵している草だけは私が刈り取りたいのだけど、今はまだ暑くて藪蚊が多くて出来ない。
自分ちの草むしりだって出来ないでいるのだ。
しかも向かいの敷地の草は半端な量ではない。
草というより、もはやブッシュだ。
本当にうちがやらなきゃどうしようもない類のものなんだろうか。
市役所に言ったって無理だろう。
空き家のまま長期間放置されていたのは、行政が動いて所有者の親族に連絡が行き、指定業者に解体させたみたいだったけど、空き地の管理までは誰もしやしない。
被害を被る者が、所有者の権利を侵害しない範囲内で、草むしりでもする他、何も方策は無いだろう。
世の中、頭にくる事は一杯あるけど、どのみちやるのであれば怒りながらせず、公徳心を培える好機だと考えて楽しくやれる方が良いに決まってる。
解っちゃいるけど、それが私に出来るかな?
まあ、やるっきゃないな。
やった方が良い事を、とてもやれないとグズグズと悩み、ただ思い煩っていると、後になってもっと大変な思いをしたり、辛い気持ちで悔いたり、自己嫌悪ばかり味わうのがオチなのだ。
ゴマが身を以て、そう教えてくれたじゃないか。
でも、せめてあと少し涼しくなって藪蚊がいなくなってからね。
そしてもう少し体調が回復してからでないと、病院どころか天国送りになっちゃうよ。
地獄じゃないかって?
いいえ、うちの子たちのいる私専用の天国ですから。
言ったモン勝ち、考え方次第・・・そういう事ですってば。
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夜廻り猫 1,2巻
著者:深谷かほる |
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