マルコ

ケージの中の天下

May. 14, 2004

2004年5月14日 金曜日

今回、私が異常なまでに怒った事に対しては案の定反響が大きかったけれど、怒らせた本人だけは何故怒られなければならなかったのか理解しなかったらしい。それでもいいさ。解かる人には解かるし、解かり合えずに私を利用してきただけの人は離れて行ってくれて構わない。そもそも私を好かないくせに、離れないでいる人が多過ぎたのだ。

どんなケースだろうが、お人好しにも丁寧に根気強く接して来た。猫を助けようとしている人ならば、たとえ一筋縄ではいかない相手でも、私自身を柔軟に変えながら接して来た。目的とする事がはっきりイメージ出来るならば、その目的達成の為には私が折れて合わせれば良いと思った。今後も、多分それは自然にして行くだろう。

しかし何度も言うが、相手の気持ちを無視した失礼は許さない。意識してしているのであれば、尚のこと許し難い。自分が「善」を行っているという奢りがあると、人はそれに協力してくれて多少の欠点は許されて当然だと勘違いする人たちがいるようだが、それは大きな間違いだ。それでは、まるで先般のどこぞのNGOのボランティアと同様だ。

猫のボランティアサイトは多数ある。サイトを持たないボランティア活動も多い。気の毒な境遇の野良猫を保護したいという「善意」のもとで献身的な活動が全国津々浦々で繰り広げられている。敬意を払わずにはいられない人たちも大勢いる。しかし残念な事に、「反愛護」を掲げている連中から指摘される通り、社会的な常識から逸脱したボランティアが多くいる事も事実だと思っている。

それは、やはり余裕のないままに無理な保護活動を続け、社会の中で自分のアイデンティティを確立出来ない者が、その補完作用として野良猫の救済に自己実現を見出そうとしてしまうからではないかと思っている。社会の中で自分の場所をきちんと確立出来ないまま、ボランティアにだけ走るのは間違っていると私は信じている。

これは何も、職業を持たなければ駄目だという意味ではない。猫の活動を離れても一般の人々に許容されるだけの自分の価値を持つ為の努力が積み重ねられなければ、猫の活動そのものですらバランスの悪いものになるのは自明の理であると言いたいだけだ。

そして自分の非礼や常識から逸脱している事を指摘されたり叱責されたりすると途端に「敵」と見なすような短絡思考は、どんどんと支持者を遠ざけるだろう。かつて15匹のSOSの時に出会った、猫の保護活動家も同様だった。しかし次々と新たな支持者を得る事にも長けている。きっとどこかその人の中には、放ってはおけないものを感じさせるのだろう。それを「魅力」と呼ぶのは容易い。

しかし私は敢えて言いたい。保身の為、些細な嘘や非礼を繰り返せる神経は、哀れみの対象でこそあれ人間的魅力などではないのだと。その事は、本物のプライドを持っていれば解かるはずだ。他人に優しくするだけならば容易い。

人を堕落させるのは簡単だ。

大袈裟に褒めて有頂天にさせるだけで良いのだから。


敢えて親切にも苦言を呈してくれる人を「敵」と思うだけしか出来ないうちは、成長など有り得ない。

必要以上に被害者意識を持つ人々や、普通の市民としての感覚に馴染めない人たちは、本来求めていたはずの理想の世の中を実現する一助とはなり得ない。そして同情からではなく、真に人間としての魅力によって支持者を得られるようになってこそ、自らの夢は実現の過程を辿れるのだろうと思う。

しかし私も、無駄な相手にこれ以上親切にする事(厳しく忠告する事)はやめよう。悪役を買って出る位の事は一向に構わないが、同時にあまりにも大勢を相手にしているのだし、時間と体力には限りがあると認め、遅蒔きながら自粛する事にした。加うるに、自分の人生の残り時間も意識せざるを得ない歳と健康状態なのだから。

ジャム

キッチン見回り中

May. 14, 2004

さあ、これで何日怒り続けているのかな?単発で瞬間的に怒ったのではない事を、物見高く覗きに来ているだけの人たちにも伝わっただろうか。私はね・・・ずーっと怒り続けているのよ、ずるい人たちに対してはね。

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