アテネオリンピックが始まったけれど、あまり落ち着いてTVを見る時間もない。食事の時くらいは見るけれど、TVだけ見ていては勿体無い。TVに限らず、全て「ながら」でないと時間が惜しい。トイレもただ座っていては勿体無いから、どんな短時間でも必ず本を読む。適当なところでやめられるエッセイが宜しい。推理小説などは、最後まで一気に読みたいから向かない。別にトイレの中で一気に読んでも良さそうなものだが、うちのトイレは地獄のように暑いのだ。いっそサウナだと思えば良いのかも知れないが、何しろ痛みや暑さには辛抱強くないので、パンツを上げるのももどかしく出て来てしまう。
オリンピック競技では、やっぱり陸上と水泳、柔道などが好きだ。道具を使わない、そして個人種目が好きなのだろう。これはこうちゃんと一致する好みだ。陸上競技は今でこそマラソンくらいしかメダルが狙えないけれど、かつては「三段跳び」が日本のお家芸と言われていた時代があった。歴代オリンピックで陸上競技で獲得した5個の金メダルのうち、3個(3大会連続で、それぞれ織田
幹雄、南部 忠平、田島 直人)は三段跳びなのだから。
不肖、我が父も三段跳びが得意だったと聞く。私が知る父は武術家でしかないので、とても意外だった。しかし父は、武術家の体型ではない。手足の長い長身で、なるほど三段跳びには向きそうだ。それがどうして柔道、そして大東流合気柔術という具合に武術ばかりにのめり込んで行ったのか。それは単に強くありたいというだけだっただろうと思う。精神修養などをモチベーションにする奴は信用出来ない・・・と言っていたのを思い出す。
母も大変足が速かったと言うし、そんな事は知らずに私も陸上競技をしていた。走り幅跳びでは「あんたの助走は、まるで三段跳びだ」と言われる位に歩幅が広かった。「じゃあ私、三段跳びに(転向)します」と言ったら、「女子には(三段跳びは)ないよ」と笑われた。当時はまだ、女子には三段跳びもレスリングも柔道もなかった。もちろんサッカーも。時代は変わった。
実はこうちゃんも陸上競技をしていた。専門は800メートルだったと言うから、スプリント力も持久力もあったのだろう。しかし私もこうちゃんも、スポーツを真剣に頑張れるだけの根性は持ち合わせていなかった。スポーツに限らずあれもこれも手をつけては、どれもそこそこやれるものの、ひとつも大成しないという器用貧乏の典型だった。スポーツ然り、学業然り、趣味の分野然り、仕事も然り。その結果、この歳になっても自分の専門というものがない。
編集や広報畑が長かったと言っても、それだって自分の意志ではなく、いわば行きがかり上やって来ただけだ。経理もやったし、地図も描いたし、カウンセラーもやった。どれも一生懸命やったから、その時その時では結構優秀だったと思う。でもどれ一つとして続けてはいない。不謹慎だし情けない事だが、何をやっても飽きるのだ。ひとつの事を続けている人たちを、本当に尊敬する。次にどんな仕事をするのか、まだ全然判らない。でも多分、何をしようとまた一生懸命にだけはやるだろう。そして多分また飽きるのだ。
この一生で妥協せず途中で放棄せず、一生懸命努力し続ける事が出来るのは、多分「猫」に関してだけかも知れない。それも死屍累々たる過去の挫折の歴史あればこそだ。ひとつ位、ちゃんとやり遂げたい。そう意識しなくても、喜んで猫たちの為に生きているようなものだが。
そんな事を、鈴木さんとも電話で話した。彼女も色んな経歴を持つ器用な人だ。そして人一倍頑張る。悲観せず、失敗しても自力で立ち上がる。つまり「甘え」がないのだ。それでいて優しい。彼女を見ていると元気が出る。頑張る人を見ると、私も頑張らなければ・・・と思える。鈴木さんの名前だけ挙げたけれど、今では私の周りには本当に頑張っている人たちが大勢いる。いずれも真摯な気持ちで、後悔しない為に頑張っている。それぞれ単独でやっているだけに、勇気や力を与え合える。