ガラ

少し復調

Nov. 2, 2004

2004年11月2日 火曜日

今朝は冷え込み無し。日中も暑い位に暖かかった。ガラは昨日は殆ど食欲がなくて心配したが、今日になるとポツポツと食べ始めた。但しウンコを放り投げたり、踏み台にしている桶をイタズラしてパッコンパッコン音を立てたりせず、目を細めておとなしくしている。いつもこうだといいね、ガラちゃん。抗生剤を粉にして振りかけたご飯を食べないので諦めて普通のご飯に替えたけれど、仕方ないよ。食べないと元気になれないもの。

ケージから開放すれば、晴れてカワムラ一家の仲間入りだ。そうしたらテトももう末っ子ではいられない。お兄ちゃんになるのだから、メエメエ鳴いたりしつこく噛んだりしちゃ駄目なんだよ、テト。
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本が増えると置き場に困る。家には6つの本棚があるが、どれも一段の棚に奥と手前2列ずつ収めてしまい、取り出しにくくて仕方ない。他にも文庫本専用のスチールのブックシェルフもあるのだが、これが優れモノでナナメに入れて3段、両面に入るので本の厚さにもよるが120〜140冊ほど入る。びっしり入れたらカーペットに食い込んでキャスターが動かなくなってしまった。今はフローリングに直に置いているので動かせば動くが、部屋が狭くて動かす余地がない。

何年か前からは、1冊買ったら1冊捨てなければ室内が散らかる一方だ。横積みした本は、何かあると雪崩を起こす。掃除の邪魔だ。捨てても良いが、誰かにあげるのが一番だろう。古本屋に売るという手もあるのだが、思っているだけで実行に移す事がない。こういう事には不精極まりない。

去年も確か、まとめて川崎市立の某病院の図書室と廊下に設えてある本棚に無断で寄付して来た。そこは勝手知ったる病院で、かつて舅の付き添いの際には24時間出入りしていた。図書室では、眠れなくて本を借りに来た長期入院患者とも本の話をした。その人の意見では、そこにある本はどれも古くて真面目で面白くない。新しいミステリーなんかが読みたいと言っていた。そうか、だったら家にある本を今度はここに持って来ようとその時思ったのだった。

家の本棚のうち2つには、それぞれが「明治の文学全集」と「昭和の文学全集」が入っている。前者は実家の母方の祖父の形見で、祖父が読んだものを母の姉妹5人が読み、父も母の実家に行くと読んでいたと聞いたが、手垢のついた相当読み込まれたボロボロの本だ。捨てると聞いて私が貰い受けた。後者は川口の家に元からあったものだ。こうちゃんの子供時代に発刊する度に1冊ずつ届けられた全集らしい。

もう1つカワムラさんの部屋にある本棚はしっかりした民芸家具のキャビネットで、中にあったのはゴチャゴチャした小物だったので全て捨て、たくさんある石塚の漫画の単行本を収めた。残りの3つの本棚は、工夫をして来訪者の目につかないようにしている。2つはカーテンを掛けた壁としてしか見えず、もう1つはミュウ部屋にあるので普段は人を通さない。

どうして人目に触れないようにしているかと言えば、私の読書傾向を盗み見られない為だ。本棚を見ればその部屋の持ち主が解かると言う人がいるが、蔵書如きで易々と判断されたくはない。かと言って特に見られて恥ずかしいような本は入っていない。蔵書の中には別冊宝島なんかもあるが(プロレス関係、グロテスク関係など)、これは特に隠していない。しかし物見高く人の持ち物をチェックする人と出会った時、特に本に関しては隠しておいて良かったと思った。

心情としては誰もがそうだろうけれど、自分から進んで露出するのは構わないが、あまりプライベートな部分をチェックされたくはない。人の家に上がらせて貰った時、私は好奇心であちこち点検はしない。むしろあまりジロジロと観察しないよう心掛けているつもりだ。同じような理由から、私もこうちゃんも人にあまり質問をしない。相手から語られた事だけ聞いておく。他人の事を詮索するのも好きではないし、品性のない真似だと思うが如何だろう。
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アメリカの大統領選挙のニュースばっかり。イラクの一般市民にどちらに勝利して欲しいかというインタビューで、面白いコメントを聞いた。「イラクにはこういう諺がある。知らない善人より、知ってる悪人の方がマシだ」

それって、「遠くの親戚より近くの他人」の逆の意味だろうか?フレーズとしては面白かったけれど、ちょっと考えさせられた。しかし、私がブッシュかケリーのどちらかを支持しているという意味はそこには含まれない。
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ヴィスコンティの『ベニスに死す』を観る。この映画は私が中学生の頃に封切られ、当時の映画雑誌でも大変話題になっていたのを覚えている。しかし当時の私にはこの作品に関しても、話題騒然となっていた美少年ビョルン・アンドレセンに関しても、どこが良いのかさっぱり解からなかった。

当時の私は、もっとアクの強い作品や俳優が好きだったのだ。つまり自分の中に人生経験が殆どない為、ヴィスコンティ作品の中に何かを感じられる程には「何もなかった」のだ。もっと作品の方から強烈に訴えてきてくれないと、感じ取れない子供だったのだろう。それは仕方ない事だ。映画に限らず、背伸びしてどんな難しい小説や恋の詩を読もうと、実感出来るものがあるはずがなかった。

しかし生意気だった私は、世界の文学を片端から読んだ。ホーソンの『緋文字』など中学生が読んで、一体何が解かると言うのだ。これは今現在の私の読書傾向とは全く違うので、安心して白状出来る事だ。何でも「読んだ事ありません」と答えずに済む為にだけ(バカバカしい)、本屋にある旺文社文庫と岩波文庫を読み漁った。そして当然、全く身にならなかった。

さて『ベニスに死す』である。これはトーマス・マンの原作も読み、ヴィスコンティの映画作品も観たのに、先述の通り「何だ、こりゃ」で終わっていた内容の無い少女であった。それがどうだろう、主人公のアッシェンバッハの歳に近づいてから見直してみると、どの場面も身に染みてよく解かる。切ない程に解かる。

自分の体力も容色も衰えた芸術家が、避暑地として訪れたベニスで愕然とするほどの美しい少年と出会い、ストーカーの如くその姿を追い求める。自分自身は老い始め全ての能力が衰えても、自分の老醜に自己嫌悪を感じても、それでも美しいものを見定める目は誰よりも磨かれている。いっその事もっと「美」に対して鈍感であればどんなにか心は楽だろうに。まるでモーツァルトの才能を誰よりも理解していたアントニオ・サリエリのようではないか。

幾ら私でもまだそこまでの歳ではないが、女の方が早い年齢でその悲哀を感じるのだと思う。他の人たちと比べれば私などとっくに女をやめているから、日頃は悲哀など全く感じないが、それでも「美しいもの」を見極める目は年ごとに磨かれるのは確かだ。数をこなさないと磨かれないのは凡人である証拠だろうから、映画の中のアッシェンバッハやサリエリに自分をなぞらえるのはおこがましいのだが。

その妖しいまでに美しい貴族の少年「タジオ」を演じ、その後さっさと引退してしまったというビョルン・アンドレセンだが、今にして観ると何と美しく艶やかな事か。(右の写真はブロマイド)『ベニスに死す』に出演していた当時は15歳だという。少年と呼べるギリギリの歳かも知れない。

実際、映画でセンセーションを起こし、日本に来てチョコレートのCMに出ていた頃にはもっとオトコ臭くなっていて、中性的な演出をしてもちょっと無理を感じた記憶がある。少女も少年も、その未分化の美しさを持つ時期は短く、その美しさは儚い。

ビョルン・アンドレセンの後に名前を出すのは申し訳ないが、可愛かった15歳のこうちゃんだって、その後の青年期にはちょっとギラッとしていて(パスポートの写真でしか知らないが)、特に心惹かれるものは感じない。こうちゃんとは、彼が他の男よりもずっと脂っ気の抜けた中年になってから出会ったからこそ魅力を感じたのだろうと思うと、私も女としてはあまり成熟しないまま枯れてしまったのかも知れない。男臭いのと同居するのは面倒臭い。

テト

ボクがお兄ちゃん?

Nov. 2, 2004

暖かかったせいなのかどうか解からないが、ジーコは今日は少し気分が良さそうだ。キャリーの個室やクッションハウスに引き篭もる時間が短くなり、アインに寄り添って寝る様子が見られた。相変わらず強制給餌は嫌々するが、時間を掛けて少しずつ飲ませる。頑張れ、頑張れ。

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