アイン

むっつり

Nov. 7, 2004

2004年11月7日 日曜日

昨夜はうどんすきにしたのだが、具が多過ぎてうどんが鍋にも腹にも入らなかった。しかも鍋に半分も余ってしまった。鶏ももぶつ切り肉が500グラム、豆腐は1丁、白滝を2巻、白菜1/4個、春菊1把、牛蒡のささがき1本分、長葱2本・・・「うどん食べられそう?」「いや、もういい・・・」やはり夕方にモツ焼きを二人で16本食べたのがいけなかったのかも知れない。

我が家の鍋物は、食卓で少しずつ煮ながら食べるというやり方はしない。そんなまどろっこしい事は不可能なのだ。すき焼きでも寄せ鍋でも、大鍋でドカッと作ってそのまま食卓へ運ぶ。途中で電話でも取らない限りは、冷めてしまう事はない。あっと言う間に腹の中に消えるから。

そして昨夜のうどん抜きのうどんすきは、今朝になって残りにうどんと葱を足して食べた。野菜のだしが出ていて美味しかった。

オバサンになると上手になる事・・・ごぼうのささがきである。若い頃は苦手だった。どうしても厚く削れてしまう。それで縦に切れ目を入れたりして削っていたのだが、今はそんな事をせずとも薄く長く上手に出来る。どうして上達したのか解からない。そんなに頻繁にささがき牛蒡をしている訳ではない。単にオバサンになったせいだと思っているのだが・・・。

そう言えば、子供の頃からナイフでの鉛筆削りが下手だった。しかし私は不器用な子供ではなかったはずだ。むしろ手先が器用だと言われて、小学校に上がる頃には編み物も刺繍もしたし、ピアノを弾いても指が良く動く方だった。しかし運針は苦手だったな。

小学生でも鉛筆削りが上手な子供はいた。私と同じ子供のくせに、どうしてあんなに上手に削れるのか解からなかった。ああいう子は、牛蒡のささがきも上手いのだろうか?これから鍋物の季節だ。牛蒡をささがきする度、嗚呼、私もささがきが上手に出来る「大人」になったものだとしみじみ思う。そして今更大人になった等と喜んでいるうちに、人生はあっと言う間に終わるのだろうな。
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昨夜、ジーコが少し気分が良かったのか、お篭もりの場所から出て来てベッドの上のアインに寄り添った時、ゴマが近づいて行って、ジーコの背中を時間を掛けて舐めてやっていた。ジーコも気持ちが良いのか、頭を下げて目を閉じおとなしくされるがままになっていた。アインは無視。

ゴマは5年前の子育て中にも、素晴らしい母親ぶりを私達に見せてくれていた。いつ寝ているのかも疑問だった。ゴマの娘たちはゴマに似て美しい賢かったが、かなりの我が儘娘ばかりだった。ゴマは「すみません、娘たちがご迷惑を掛けて・・・」と言うような顔をして、いつも神妙にしていた。

壁や家具で爪研ぎもせず、トイレの後も砂を1粒も持ち出さず、勿論粗相もせず、夜鳴きもせず素晴らしく手の掛からない猫だったが、娘たちが全員里子に出た日にアメショー軍団の部屋に移されて以降1年と7ヶ月の間、毎日私達のベッドで日に何度もオシッコをし続けたのだ。ジャムが来る日まで・・・。

ゴマの母性を目の当たりにして来た割に、最近の私へのストーカーっぷりで忘れていたのだ。ゴマは母親になるのが好きな猫だという事を。マルコにも適当にパンチさせパンチして上手にストレスの発散をさせ、ジーコにも気配りを見せる。ミュウが居た頃は、アインがミュウに圧し掛かられて悲鳴を上げると、すっ飛んで行ってミュウの大きな身体にボディアタックをかましていた。ジャムが仔猫の頃は、それこそ我が子として始終慈しんでいた。

しかし誰もゴマに感謝して恩返しをする事はない。母性とは報われないものだな。仮に私が子供を持ったとしても、まさか「こら、ママはアンタの為に仕事も辞めて子育てしたんだから、恩返ししなさい」とは言えないよな。今からはもう持てませんけどね。
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しかし現実とは関係なく、夢は勝手な状況下にある事が多い。昨夜は結婚をする夢を見た。3度も結婚しておいて夢でまで結婚するとは図々しいと思われるかも知れないが、好きで見た訳ではないのだからお許し願いたい。

教会の祭壇の前で、順番待ちをしていた。前の新婦が被っている白いベールが、ただの白い無地の布なのだが、とても簡素で美しかった。それは修道女が被っている夏物のベールのような長さだ。つまり肩より若干下まで垂れる程度の短いものなのだが、「これで充分なのよ」と夢の中で思っている。ゾロリと長いベールなんか、日本人が似合わないでしょう。少なくとも私は被りたくない。

カトリックでは、祈りの際に女性はベールで顔を隠す事を習慣として来た。私も幾つかベールを持っているが、私が頭に被るどころかベールが埃を被っている事だろう。ロザリオも錆びた。でも良いのだ。大切なのは形あるモノではないし、教会へ行く事そのものでもないと私は信じているから。私と神との直接の問題なのだ。

ベールに話を戻すが、あれは美しいレース等で装飾的に作られてもいるが、あくまでも顔を隠すのが目的の物であると聞いていた。しかし新約聖書を読んでいると「もし女性が髪を覆わないのなら、髪の毛を切り落とすべきである。」というような意味の事を、確か聖パウロだか何だかが言っていた。女性の髪の毛というのは異性を惑わせるものだから、・・というような理由であったと記憶しているが、慎み深い敬虔な女性は人前で髪を見せるものではないという因習がユダヤやイスラムの世界にはあったし、カトリックの修道女は数百年も頭部をベールで覆っている。

いかにもフェミニズム問題に触れそうな話題だし、そこまで及ぶと私は門外漢なので(そもそも興味もないので)やめておこう。

ところで、女性がミサの時にベールを被る習慣も次第になくなって来ているとも聞く。やはり時代の流れなのか。女性だから云々ではなくて、人前ではベールを被る習慣がこの現代日本にもあったら、私としてはどんなにか楽だっただろうと思う。化粧も不要、整髪やパーマもしない、多少寝不足で目が充血していようが顔が浮腫んでいようが全てベールが隠してくれる。あ、ベールを被らなくても、これは全て今の現状でした。失礼しました。
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少し具合が良くなったと思ったら、直ぐに根を詰める作業をし始める。悪い性癖だ。でも出来るうちにやるのだ。過去の20年間の過ぎ去って行った速さを思うと、この先の20年間などまさに「光陰矢の如し」であろう。20年?本当にあと20年生きられるのだろうか。

しかし末っ子ガラを看取るまでは死ねないから、何としてもあと20年は生きるのだ。別にいつも「死」を意識している訳ではないが、どうも今日はそういう締めくくりになりがちだな。

ジーコ

少し気分が良い

Nov. 7, 2004

ジーコ、吐き気があるが、胃が空の時に限って吐き気が襲うのか、何も吐けずに苦しんでいる。最後にようやく、卵白をしっかりホイップしたような泡だった胃液を少し出した。タンポポ茶だ飲ませて休ませる。休ませると言っても、思い通りには出来ないのだが・・・。好きなようにさせておくのが一番だと思っている。但し強制的に水分多めに溶いたキドナを少しずつゆっくり与える事だけは譲れない。ここが生命線なのだ。

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