《CAT'S EYES & CAT'S HANDS》猫雑記
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ジニー

ご飯に夢中

Oct. 19, 2006
ジニー

2006年10月19日 木曜日


朝一番でゴミを出し、ジニーの様子を見る。外はまだ薄暗い。ちょっと肌寒い。

ジニーは昨日まではケージの最下段の隅っこで固まっていたのだが、今朝はケージの2段目に置いた猫ベッドに入ってくれていた。

ケージに顔を近づけても、あまり怖がっている様子は無い。この子は頭も性格も良いんだろうな。誰も危害を加えないのだと、もう理解したのだろう。



薬入りのご飯を用意して持って行くと、小さな小さな声で「あっ・・・あっ・・・」と短く鳴いた。

ご飯をチラつかせながら3段ケージの最上段へと導くと、暫く迷っていた。しかしご飯の誘惑には勝てない。前足をステップに掛け、後ろ足を蹴って最上段に乗れた。そうそう、そこが今はアンタのダイニングなのよ。



ジニーはもう私達の目の前で食べられるようになったし、ちょっとだけ背中にも触れた。しかし触るまでもなく、全く肉付きの無い体。去年のチャイの保護当日の写真と比べても、ずっと痩せている。

とても猫とは思えない程、細長い顔。出たまま引っ込まない瞬膜は、具合の悪い子に特有だ。見ていると痛々しくて思わず泣けてくる。カワムラさんを保護した時も、暫くは不憫で堪らなくて、毎晩泣けたっけ。



だけど食べるスピードは上がって来たし、ウンチもコロコロの大きなのをしている。毎日美味しく食べて、安心していっぱい寝て、少しずつ太ろうね、ジニー。

アンタがどんな風でも可愛いよ。

こうちゃんも「この子はいい子だな」「ジニーは可愛いよ」を連発している。
ジニー

呼んだ?

Oct. 19, 2006
ジニー


そしてジニーのa/dが欲しくて、わぁわぁ鳴いて部屋の仕切りに集まる卑しん坊のバカタレども。全くもう、カワムラさんまで・・・。

格子のところに4匹居るのですが、判ります?
バカタレども

予定通り、レイト・ショーで観て来ましたよ、【ブラック・ダリア】。

昨日の今日だけど、行くと決めたら万難を排してさっさと行かないと、熱が冷めてしまって、DVDかビデオで観ればいいや・・・という繰り返しになるのがオチだ。



早朝から(いや、実はやる事が終わらないと気になるので徹夜しちゃったのだけれど・・・)息もつかずに仕事と猫家事を片付け、午後8時15分に家を出る。最終回のレイト・ショーは午後9時20分から。

目指す上映館(109シネマズ港北)までは車でほんの10分程度・・・だけど余裕をもって行けば、映画の前に何か食べられるかも知れない。

映画館の売店らしいキッチュなものを飲み食いして、久々に映画館そのものを満喫したいと思った。何しろ20年ぶりの映画館なんだもの。



チケットは、夫婦二人で2000円。「夫婦50割引 / for a couple,if either of them,is over age 50」というヤツで、通常のレイト・ショー割引よりも合計で400円安い。しかも全席指定。

客席80のミニ・シアターから320席の中型のシアターまで、7つの映画館が入っている。

現在上映中の映画は8本。7つの映画館でどうして8つなのかと言えば、午前中に1回だけ上映する作品と、午後から4回する作品とで同じ劇場を使っているから。

私達の観ようとしている【ブラック・ダリア】は、116人収容のミニ・シアターだ。どこでもお好きな席をお選び下さいといわれたので、前から3番目の真ん中をとってみた。

これが売店!

いまどきは、
こんな風なのか。

浦島太郎の気分。

ホットドッグとペプシコーラMサイズセット500円というのを買う。

温めたドッグパンに、温めたウインナソーセージを挟んで寄越すだけ。トマトケチャップと粒マスタードは各自、自由につける。

他にもパンはあったけれど、甘いものばかりだったのでやめておいた。ちょっと物足りないけれど、後でポップコーン食べるし・・・。



食べ終わるともう上映開始10分前だったので、ポップコーンとコーラのSサイズを追加で買って、「シアター3」に向かう。



劇場に入ってみると、なるほどミニ・シアターだ。こじんまりとして、スクリーンも小さい。スロープはついているものの、小さな会議場のようだ。

最後に行った映画館は、渋谷の東急文化会館の地下だったか日比谷スカラ座だったか忘れたけれど、遥かに大きかった。

私達の席の前には誰もいない。全部で4組のカップルと一人の男性だけが観客というレイト・ショー。赤字じゃないのか?

昔の映画館と比べると、前の座席との間隔が充分にあり、窮屈感は無い。惜しむらくは、ひじ掛けがもう少しゆったりしていると楽なのだが。



お決まりのニュースと予告編があり、それが結構長いので、ポップコーンは殆ど食べ終えてしまった。

ま、本編が始まったら集中して見聞きしたいので、それで良いのだけれど。



今日はデジカメを忘れずに持参した。私達にとっては滅多にない娯楽だったので、余所様が初めて海外旅行に行く位の意気込みだったかも知れない。

勿論、撮影はここまで。映画館に行ったという雰囲気と証拠写真だけ撮れれば充分だ。

それにしても、フラッシュなしでも結構写るもんだな。






さて、肝心の【ブラック・ダリア】は・・・

楽しかった。

デ・パルマ作品では、【殺しのドレス】を抜いて一番好きかも知れない。

カラーの部分にもモノクロ部分にも感じる濃い色彩、物理的にも心理的にも光と影のコントラストが強く、匂いや温度が伝わるようなネッチリとした映像。

モノクロのコントラストの強さは、ヒチコックの【レベッカ】を思い出させる。



出演者も綺麗過ぎず、リアリティがあった。



ストーリーはもう既にあちこちで語り尽くされていると思うので、印象に残ったディーテイルだけを書き留めておこうと思う。



冒頭のボクシングの試合は、ヘビー級のパンチの重さが感じられる白眉のシーンだった。

八百長試合ではあったものの、KOシーンでは前歯が2本血糊と共に吹っ飛ぶ。その血の赤が、既に「濃い」。



ここで闘ったプロボクサー出身の警察官の男二人は、その特捜課の刑事としてコンビを組む。

やや歳は離れているものの、この二人の間にある友情は、年上の「リー」の保護者のような恋人「ケイ」を挟んだそれぞれがプラトニックな三角関係に発展していっても決してややこしい事にはならず、ロマンスも友情も純粋に保つ努力が為され、当事者も観る側もなかなか切ない。



その謎めいた美女「ケイ」を演じるスカーレット・ヨハンソンの、抑えたエロチシズム。

この時代の女性を演じるに相応しい、古典的な美しさだ。

肉感的でいて、しかも品性がある。



これからどんな作品で彼女を観られるだろう・・・と思うと楽しみだ。




「バッキー」も「リー」も、それぞれストイックで男っぽい。

物語の始まりは1946年、第二次世界大戦が終わった翌年だ。

戦勝国であるアメリカが、もしかしたら一番タフな時代ではなかっただろうか。



若い方の「バッキー」はドイツ系移民の2世らしく、認知症の父親は興奮すると英語ではなく母国語で怒鳴る。

物語に厚みというか深みを与えているのは、この親子関係を織り交ぜ、「バッキー」の人間性を丹念に描いているせいだろう。



惨殺死体で発見された「ブラック・ダリア」こと「エリザベス」の父親に事情聴取に行くシーンで、娘がいかに男にふしだらであったかを父親が語る。

「バッキー」が「エリザベス@ブラックダリア」のボーイ・フレンドの名前を父親に問うと、「トムだったか、ディックだったかハリーだったか・・・」と父親は投げ遣りに言う。

ここでニヤッとしてしまう。



つまり、よくある名前を適当に言う場合の、お馴染み”Every Tom,  Dick and Harry”(「猫も杓子も」とか「どいつもこいつも」の意味)という言い回しを知っているなら軽い笑いが起こるシーンのはずだが、劇場はシーンとしていた。(あ、スミマセン、寒かったですか?)

余談だが(そもそも余談ばかり書いているのだが)、映画【大脱走】で掘っていたトンネルは3つだった。それぞれに「トム」「ディック」そして「ハリー」と名付けられていたのをご記憶だろうか?

だから野暮な説明をするならば、「エリザベス」のボーイフレンドの名前は、決して「トム」でも「ディック」でも「ハリー」でもなくて誰でも良いのだ。

日本語で言うなら、「山田だか鈴木だか田中だか・・・」といったところか。



女優志願だった「エリザベス@ブラックダリア」がスクリーン・テストを受けているフィルムの中で、セルズニック(デビッド・O・セルズニックの事。映画【風と共に去りぬ】のプロデューサー)と話をしたとか、スカーレット・オハラの役は大好きなので科白は全部暗記した等と喋っている。

1947年1月に死んだ「エリザベス」はその時22歳という設定であり、1939年製作の映画【風と共に去りぬ】にスカーレット役で出られる年齢ではない。



勿論、年齢になど関係なく、「エリザベス」程度の「一山幾ら」の女優志願の女の子がハリウッドの大作映画で主役を貰えるような事はあり得ない事は、本人にもスクリーンテストをしている「誰か」にも、そして観ている私達にも解かっているのだ。

それだけに、ハッタリにすらなり得ない嘘が、決して叶う事の無い儚い夢・無邪気な妄想である事を表していて、何とも不憫だ。

それから間もなく惨殺されてしまう事よりも、別の次元でもっと残酷な現実をモノクロのフィルムが語っている。

スカーレットの科白として「何をしてでも、もう決して飢える事はしない、never」と言う部分は、多分他愛もない嘘ばかり言っていた「エリザベス」の唯一の本音だったのだろうと思うと、それもまた不憫だ。



腐敗しきった成功者ばかり居る中で、実の父親からもルームメイトからも「アバズレ」としか言われなかった「エリザベス」が、実はこの映画の中で一番純粋で無垢に見えてしまう。



因みに、前述の【レベッカ】も、セルズニックが製作(プロデュース)した作品である。

この大物映画製作者は、監督や脚本にも口を出し、製作中に監督が交代する事もしばしば。女優選びにも大変に拘るプロデューサーであったと言う。

そんなセルズニックが、「エリザベス@ブラックダリア」程度をカメラ・テストの俎上に乗せる事はやはり有り得なかっただろうという事も下敷きとなる。



「エリザベス@ブラックダリア」のルームメイト「ローナ」を発見して事情聴取する時に押収したフィルムを、何だこれは?と問うシーンがある。

その時にも「大作じゃないだろうが」と言うのに、直訳すれば「セルズニックのフィルムじゃないだろうが」と言わせている。

ハリウッドで大作映画を手掛けると言えば、圧倒的にD・O・セルズニックが名を馳せていた時代という訳だ。



そんなところにも、この【ブラック・ダリア】には、映画マニアには堪らないネタがたくさん盛り込まれている。



それからマニアックな薀蓄を言うと、指名手配の凶悪犯「ナッシュ」の説明をバッキーのモノローグでする際、字幕では確か「カウボーイ」という一言で済ませているけれど、原語では ”cowboy like Gene Autry と言っている。

これは『歌うカウボーイ』と言われたGene Autry の事だ。1940年代に活躍した人気絶頂のカントリー歌手であり西部劇スターである。

この時代背景を表すのにファッションや車だけじゃなく、そんなちょっとしたところにも趣向が凝らされている。



レズビアン・バー「ラヴァーンズ」のショウで、タキシード姿で ”Love For Sale” (1930年代のコール・ポーターの名曲、ミュージカル『ザ・ニューヨーカーズ』の挿入歌)を歌っていたのは、自身もレズビアンである事をカミング・アウトした k.d.ラングである。

これが物凄く上手い。

枯れた声質ながら潤いと凄みのある、鳥肌が立つような歌いっぷりだった。



こんな僅かな、しかもストーリーとは直接関係も無いシーンに、何と贅沢な作りだろうと思う。

やはり映画とは、総合芸術なのだと思わせてくれる。



但し ”Love For Sale” の歌詞の不品行さ(つまり売春の歌である)は歌い手の芸術性で掻き消され、ショウの豪華さはそのまま、そのレズ・バーのランクを表している。

もっと場末の怪しげなレズ・バーにも聞き込みに回っているのだが、「ラヴァーンズ」の客層は決して下流階級の人々ではない。



色々な歌手(ビリー・ホリデーやトニー・ベネット、異色なところではジェーン・バーキンなど)がこれまでにも歌ってきたスタンダードナンバー ”Love For Sale” だが、この歌が出来た時代背景とその経歴からはビリー・ホリデーにピッタリと言えなくもないけれど、これが秀逸じゃないかと二人で話した。

もう一度聴きたい。

もう一度観るしかないのか、それともDVDの発売を待つか。



虚飾に満ちた富豪の娘「マデリン」役のヒラリー・スワンクは、演技は上手いんだろうけど相変わらずの凄い顔である。

レズビアン・バーで「バッキー」に『たむろする中で君が一番美しかった』と言わせるには、ちょっと無理があるかなと感じた。

雰囲気はあるし、身体も悪くない。

気合いも入っているんだけど、なにせ顔が怖い。

「エリザベス」のように口をナイフで切り裂かれる事なしで、既に耳まで裂けているみたいに大きな口だ。

目も吊り上がっているし。

この人が一番似合っていたのは、【インソムニア】の女性刑事役だと私は思う。



ドラマ展開のテンポの計算は【殺しのドレス】と同様、素晴らしい。

一楽章の「アダージョ」から三楽章の「プレスト」まで、この緩急自在なところが、デ・パルマの作品の持ち味でありメリハリの良さなのだが、それを理解しない人たちというのはいるらしい。

「前半やけにまどろっこしいと思ったら、いきなり畳み掛けるように解決しちゃって訳ワカンナイ」という事を言っている人達がいて、それこそ「どうしてワカンナイのか、訳ワカンナイ」と言いたくなる。



確かに、映画が始まってもタイトルにもなっている「ブラック・ダリア」事件はなかなか起きない。そこに至るまで、登場人物の背景が丹念に描かれる。

そしていざ事件が起きるとどんどんテンポが速くなり、小さな流れが本流に集まり始めると、やがては激流となる如く、集中していないと流れに乗れないだろうとは思う。



これが逆だったらどうか。

バックグラウンドは性急に雑に描かれ、解決の道のりをゆっくりたっぷり説明的に描いたら。それはストーリーだけ追いたい観客にとって親切ではあっても、作品としては「野暮」になる。

これでいいのだ・・・バカボンのパパではないが、そう言いたい。もっと映画を観るセンスを磨こうよ、若者よ。



二重三重に意表をつく(「ドンデン返し」と言えるかも知れないが)結末と、それに疲れきった語り手である主人公「バッキー」と観客に用意される温かい落ち着き場所で終わらせるところも、【殺しのドレス】と同じだ。

但し、その安堵の直前に見る恐怖のフラッシュ・バックも、【殺しのドレス】の手法と一緒だが。



主軸となるのは、決して「エリザベス@ブラックダリア」の殺人事件ではない。「リー」と「バッキー」そして「ケイ」のラブ・ロマンスであり、友情であろう。

但し、正義感とトラウマに衝き動かされて事件を追い続ける「リー」も決して完璧な善人ではなく、出世欲にかられた八百長試合をしたり、事件絡みでの横領、それを揉み消す為の殺人とも言える捜査行動もする。

命の恩人と信じた彼(リー)の女(ケイ)に手を出す事を自制していた「バッキー」も、劣情処理のように「マデリン@ヒラリー・スワンク」とは簡単にセックスに至る。男ってまったく・・・。



命を救われた撃ち合いの現場に至るまでの、カメラワークが凄い。

ずっと俯瞰で追い、建物を越え、そのまま車が走り・停まるまでを急激にズーム・インさせ、それをワンカットで収めるシーンの迫力。どうやって撮っているのだろうと思わせる。



ミステリー作品が多い監督としては、いつも言われて来た「ヒチコックの二番煎じ」という批評は、的を射ていない気がする。むしろ今回感じたのは、ビリー・ワイルダー的な脚本の巧さとプロットだ。

嫉妬と狂気に陥ったハイソサエティの老婦人の怖さは【サンセット大通り】のグロリア・スワンソンを彷彿とさせる。



それから字幕のスーパーが、ちょっとお粗末だった部分について。

憑かれたように猟奇殺人事件の捜査にのめり込む「リー」に対して、「バッキー」は当初から批判的だった。地道に今まで取り組んでいた事件の方を解決して行こうと言う。

しかし「リー」は聞かない。あくまでもこの猟奇事件に自分は全力を尽くすと言い切る。その時に言う捨て科白がこうだ。”With or without you”

これを「お前抜き(無し?)でな」と字幕が出た。それではちょっとニュアンスが違ってしまうんじゃないか?

「お前抜きでな」と「お前抜きでもな」とでは、全く意味が違う。



劇場で観る映画は、やっぱり家庭で観るのとは全然違う。画面やサウンドに迫力があるだけじゃなくて、余分なものが視界に入って来ない、電話は鳴らない、マルコも文句を言い続けない・・・。

だけどひとつだけ不便なのは、煙草が吸えない事だ。

スクリーンの中では、「ケイ」は初っ端からずっと煙草を吸っているし、「リー」も「バッキー」も矢鱈と煙草をふかす。それを観ていると、どうしたって煙草が欲しくなる。楽しい時こそ、煙草が美味しい。喫煙者は困ったヤツだ。



帰りは鶴見に回り、エサやりを済ませてから帰宅。帰宅すると午前1時だった。

ゴマが猫トイレでオシッコをしてあり、いい子いい子と抱きしめて嫌がられる。そして長い夜がまた始まった。

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