カワムラさん
おや、いたの?
Jun. 28, 2008
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2008年6月28日 土曜日
祖母の話で繋ぐ。
祖母は、誰が来ても風呂に入れだのご飯を食べろだの言って、世話を焼くのが好きだった。
泊まりに来た訳でもない人を昼間から風呂に入らせた挙句、たくさん縫ってある新しい浴衣を着せてやる事もあった。
祖母も母も、当たり前のように和裁をしていた。祖母は力持ちで、うどんや蕎麦も打ったし、布団も自分で打ち直していた。昔の事だから、着物の洗い張りなんかもしているのを見た記憶がある。
昔の主婦は本当に良く働いたと思う。私なんか・・・とても主婦とは言えない。
和裁で収入を得ていたのではないから一年中縫っていた訳ではないが、浴衣はたくさん縫っていた。だもの、客にも着せたくなるのだろう。
そんなお節介の世話焼きだから、民生委員やら調停委員やらもやっていて、家の玄関には「心配事相談所」と書かれた木の看板が掛かっていた。
だからひっきりなしに知らない人がやって来ては何やら泣きながら相談していたのを、私は祖母の膝に抱かれながら聞いていた。勿論、内容なんか覚えちゃいない。
駅前通りの繁華街に家があったので、近所にはパチンコ屋もあった。
そこで雇われていた朝鮮か韓国の人だったのだろうか・・・娘が二人いて、友達もいないようだったのだが、祖母だか母だかが、外に遊びに行こうとしない私と、その姉妹を我が家で遊ばせたのだ。
その時、祖母が姉妹の足を見て「まあ、アンタたちの足はまるで糞掻き棒(クソカキボウ)だねえ」と言って、早速風呂に入らせたのを覚えている。
当時の子供は今の子供と違って汚かったと思う。外で遊べば泥に汚れたし、子供でも手にアカギレが出来ていたり、青っ洟を垂らして鼻の下がピカピカしていたりするのは別段珍しい事ではなかった。
それが特別、貧困家庭だったという事ではなかったと思う。みんなまだ貧しい時代だったのだ。。
・・・と言っても解らないだろうけれど、いまどきの若い人には。
夏に飲む冷たい飲み物だって、カルピスは高価なもので、大抵は大袋入りの粉末のジュースの素を水で溶かして飲んだ。
サイダーはあったけれど、コカコーラはまだ田舎には無かったと思う。
サイダーにはまだチクロが入っていた。
お米屋さんが届けるという「プラッシー」もあったけれど、これも高級品だったから、日頃ガキが飲ませて貰うものではなかった。
氷屋も来た。
うちは父が家電メーカーだったので昔から冷蔵庫があったけれど、近所のお婆さんの家には木製の冷蔵庫があって、氷を入れて使うものだった。「猫んちの婆」の冷蔵庫だ。
そういう冷蔵庫に、氷屋が大きなノコギリで切り出した氷を入れたのだ。
この話は、過去の日記で何度か書いた覚えがある。10年もほぼ毎日のように日記を書き続けていると、同じ話をしてしまう事が多い。
サイト内検索をしてみたら、2001年の6月28日と、2007年の5月10日であった。どちらにも詳しく書いているので、当時が如何にまだ貧しい時代だったかの繰り返しは、これ以上はやめておこう。
でもそれを説明する事無しには、祖母が発した言葉は誤解されそうだと思ったのだ。差別して言った言葉ではなくて、田舎のお節介で仕切り屋のお婆さんが、一種の愛情をこめて言った言葉だったのだと思っている。
「アンタたちの足は、まるで糞掻き棒だね」
勿論、寝る前には風呂に入り、汚れた手足は洗うのだろうが、よく遊ぶ子供達の手足は薄汚れていたのは事実だ。
インドア専門の私は一年中手足を汚すなどという事は無かったけれど、それはそれで問題視されるような時代でもあった。子供と遊べない子供・・・引き篭もりの元祖みたいなものだったのだ。
それで何とかしようと思った母と祖母が、強硬手段としてガールスカウトに放りこまれたらしいのだが、それは別の話題としていずれまた・・・。
風呂に入らせてから、おやつや食事をさせる。人が来れば誰にでもご飯を食べさせようとする。それが祖母のもてなし方だったのだろう。
その姉妹は間もなく引っ越す事になって、ある日突然お別れにやって来た。祖母たちは事情を知っているらしかったが、私は就学前の幼児だから何も解っていない。
玄関に佇んでいた様子をおぼろげに思い出すだけだ。
妹の方が涙ぐんでいた。
お別れのプレゼントとして、極彩色のフワフワのアクリルの透けた安物のスカーフを黙って差し出した。お母さんに持たされたのだろうか?
子供だし、スカーフなんか使わないのだが、私も黙って受け取ったような気がする。
断っておくが、「クソカキボウ」なんて言葉は、当時ですら私も初めて耳にした言葉だった。
「糞掻き棒」とは、汲み取り便所の内容物を汲み取る柄杓の事だろうか?それとも掻き混ぜる為だけに用意されていた棒があったのだろうか?
それとも完全なる造語だったのだろうか?
祖母は色々と面白い言葉を勝手に作った人でもある。矢鱈と気取った近所の年頃の娘さんの事を「ウンコの上澄み」と言った事がある。
みんながどういう意味かと尋ねると「汚く澄ましている」と答えた。
祖母は上州の女であるという程度では済まない位に口が悪くて、だけど気は良くて、せっかちでお節介。
利根川縁(べり)の舟問屋の娘だったと言う。お嬢様ではあっても、気の荒い船人足たちに囲まれて育ったから、物凄くお転婆だったらしい。
明治の女学生でだから着物に袴を穿いて、階段を逆さに這いつくばって降りて友達との賭けに勝ったのだと自慢していた。当時だったら、とんでもなくお行儀の悪い事だったのだろう。
電柱に登って下りられなくなって泣いていた私を、着物姿で上って来て助けてくれた事もあった。
母とは嫁姑の関係で色々とあったのを知っているが、私は随分とお祖母ちゃんに子守りして貰ったし、お祖母ちゃん子だった。
添い寝しては寝物語をたくさん聞かせてくれた。話が上手い人だった。私が10歳の時に死んでしまった。
色々と思い出すにつけ、私は何につけてもとても祖母に似ているのだという事が解る。性格もだが、デコチンなところも似ている。
美人だった母にちっとも似ておらず、私の記憶の中では既にお婆さんだった祖母に似ているというのは、何だか複雑な気分だけど・・・。
でも、やっぱりこうして血は受け継がれていくんだなあ・・・と感じる。
因みに祖母も大食いだった。う〜ん・・・。
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カワムラさん
ちょっくら失礼するよ
Jun. 28, 2008 |
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カワムラさん
もう眠いんでね
Jun. 28, 2008 |
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