メラ
デブでゴメンナサイ
Apr. 16, 2009
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2009年4月16日 木曜日
完全休業日。
朝の猫家事の後、二人で庭木の剪定をする。数年前に植えた槿(むくげ)の背丈が伸び、昔から植えられていた松の木に迫る勢いだ。
トネリコの木も大きくなってきた。大好きな桜も植えたいと思いつつ、うちの(裏の?)公園に一杯あるからいいや・・・と諦めたのだ。でも今からでも植えようかなと、ふと思う。
昼には買い出しに行き、ついでに外で何か食べようという事になった。
だけど良い店が思い浮かばない。暑いのでざる蕎麦でもいいね・・・と話し、久し振りで蕎麦屋に行って天ざるを食べる事にした。
冷たい蕎麦、美味しい。今年もざる蕎麦が美味しい季節になったんだな。
蕎麦屋はマツモト先生の病院の直ぐ近くなので、多守ちゃんの治療費・入院費のお支払いもしてしまいたかったのだが、先生が毎日物凄く忙しくて、まだ計算が出来ていないと言う。
早くお支払いをしないと気持ちがすっきりしない。また近々マーゴの薬を貰いに行くから、その時にはきっとお支払い出来るだろう。
さて、唐突だけど、私が平井堅を嫌いな訳。
お好きな方には申し訳ありません。
好きだという人を傷つける恐れもあって、好き嫌いの問題を語るのはそんなリスクも伴い、且つ説明が難しいのですが、敢えて書きます。
ファルセットを多用する最近の日本の流行歌には些かウンザリしているので、何故か「上手い」と言われている平井堅に代表になって戴いて、ま、外見も好みでない事もあり、「嫌い」と明言してしまいます。 |
近頃あちこちで耳にする日本の流行の音楽は、裏声(ファルセット)を多用して声域の広さやテクニックを誇示するような傾向があるけれど、あまり裏声ばかり聞かされると気持ちが悪くて仕方ない。
敢えて裏声に持っていかず、地声を張り上げて歌い切ってしまう方がずっと良いと感じた例を、ここでご紹介したい。
ミュージカル「キャッツ」の中でも最も有名な歌なので説明の必要も無いと思うが、劇中、老いた娼婦猫のグリザベラが歌う【Memory】を、バリー・マニロウが歌っているものだ。
出来たら、是非最後まで聴いて下さい。
進行するにつれ、どんどん音程が上がって行く。そして最後の高音も、裏声にならずにきっちり歌い上げている。
T・S・エリオットの詩も、アンドリュー・ロイド=ウェバーの音楽も素晴らしい。けれど、歌っているバリー・マニロウの決して嫌らしくない清潔な歌唱こそが、こんなにも私の心に訴える力を持つのだと思う。
これも好き嫌いの問題で、別の歌手が歌ったバージョンの方が好きな方もいるだろう。
バリー・マニロウを知らない世代もいるようなので、彼がどれだけ才能に恵まれた歌手であり作曲家でありプロデューサーであるかは、>>こちらをご参照戴きたい。
私が大学生だった頃、それは確か「テレビ東京」がまだ「東京12チャンネル」と呼ばれていた頃で、でアメリカのテレビ番組を色々と放送していた。
【ザ・テレビジョン】という番組だったと記憶している。ハリウッドスターの運動会のようなものあり、「こきおろし大会」などというものもあり、面白いドラマもあった。【SOAP】というドラマだ。
その番組のひとつに【American Music Awards】の授賞式があって、バリー・マニロウがピアノで弾き語りしているのを見た。
まだ若いバリー・マニロウはちょっと鼻が高すぎるけれど素敵だった。
それはさておき、私にとっての本当に声域の広い上手い歌い手というのは、こういう歌手なのだ。
日本で言えば、やはり若い頃の布施明とか、系統は大分違うものの若い頃の北島三郎とか・・・高音域までを、気持ちの悪い裏声を使わずに一気に歌い上げる喉の強さ、潔さ。
何故この事に気付いたかと言えば、先日多守ちゃんの保護主のあゆちゃんと会った際、多守ちゃんが元気になったらお祝いにカラオケに行こうね・・・と話したものだから、折角歌が上手いのにカラオケに行った事の無いこうちゃんに、この私が何かレパートリーを探してやろうと思って、それでバリー・マニロウの動画を探していたのだ。
流石にこれ位ポピュラーな曲だったら英語の歌でもカラオケにあるんじゃないかと思って、そしてこうちゃんに動画を見せながら「歌ってみぃ」と命令した。
歌詞もシンプルで、その場で直ぐに歌えるはずだ。
だけどこうちゃんにはコードが高過ぎたのか、余程声を張り上げるかヴォイス・トレーニングをしてからでないとどうしても裏声を使わないと歌えず、「平井堅みたいになっちゃうよ」と言ったのだ。
それはやめて欲しい。別の曲を探そう。
こうちゃんはもう若くない。
ずっと現役で歌い続けている北島三郎ですら、最近の歌を聞くともはや声が出ていない。現在のダリル・ホールだって、若い頃の歌声には遠く及ばない。
歳をとるという事は、容色が衰えるだけじゃない、声も衰えるのだ。
グリザベラ同様、私達誰もが無残にも衰えていく。
切ないね。
しかし勿論、年齢を重ねるごとに失うものもあれば、増すものだってある。
例えば晩年のジョニー・キャッシュの歌うスタンダードを聴くと、若い頃の声は失われても、そこに加わった滋味や味わいは、聴く者の心に染み入る深みがある。
表現するものを持たない私で例を挙げるなら、たとえば忍耐力などは増して来ただろう。愛する事を実践する気構えも増したはずだ。だってそれでしか自分を褒められないじゃないか。
多守ちゃんは死んでしまった。
だからカラオケには行けないかも知れない。
そう思いつつ、今日、もう一度この動画を開いてみた。
そして歌詞を改めて読みながら美しい歌声を聴き、恥ずかしいけど今日もまたひとしきり泣いてしまった。
これは多守ちゃんの歌だ。
多守ちゃんは娼婦じゃないけれど、詩のひとつひとつの言葉が、多守ちゃんから発せられているように思えて仕方ない。
野良猫として生きていた年月を、多守ちゃんは何を感じ、どんな苦しみ、どんな喜びがあったのだろう。
飢えと寒さと常につきまとう身の危険への恐怖・・・そういった困難だけではなく、喜びや幸せの瞬間があっただろうか?
暗い夜が空け再び新しい夜明けが来るとき・・・或いは長く辛い冬が終わり暖かい春の訪れに喜びを感じるときもきっとあっただろうと、そう信じたい。たとえほんの一瞬であったとしても。
救えなかった命に対する想いはかくも割り切れないものなのかと、改めて感じている。
カワムラさんのときもみーちゃんのときも、勿論ミュウやジーコ、アイン、マルコのときだって、お別れは勿論悲しく恐ろしく苦しかった。
出来るものなら(出来ないのだが)一緒に死んでしまいたいとも思った。
でも彼らとは共に生きた時間があり、楽しみも喜びも幸せも、そして病や困難との闘いもたくさん共有したのだ。
だけど多守ちゃんの幸せを、私は知らない。
それが一番堪えるのかも知れない。
じめじめした事ばかり言って申し訳ないし恥ずかしいのだけれど、多守ちゃんへの想いが腑に落ちるまで、私は多守ちゃんの事をとことん考えていたい。
いつまでも悲しみにだけ浸っている訳でもないし、決してネガティブな精神状態になっている訳でもない。
もはや何もしてやれない、する必要もない死んでしまったものに対して過度に悲しむ事はしたくない。現実を優先しなければ生きていけない。
だけど、私はまだ多守ちゃんを気が済むまで想いたいのだ。
そうして不本意ながらも涙を流す事なしには、共に暮らす事が出来なかった分、心のバランスが取れないのかも知れない。
【Memory】を聴いて、多守ちゃんを想って戴けたら嬉しいです。 |
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初めて会った日の
多守ちゃん
Apr. 16, 2009 |
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