2014年11月4日 火曜日 |
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今日も良く晴れた。
そして寒い朝だった。
九州の湯布院では氷点下だったとか。
九州で、しかも湯気の上がる暖かそうな雰囲気の町で・・・と無知な上、先入観でものを言ってはいけないのだ。
それでは、私が群馬の出身だと言うと「雪が多いんでしょう?」と開口一番に聞く人と変わりないではないか。
ふん、谷川岳とか沼田の奥の方なら群馬でも雪は積もるだろうけど、私の実家の辺りは乾燥していて、そもそも雪が殆ど降らない。
海に近くて空気が湿っている東京に出て来たら、雪が多いのに驚いた位だ。
「あら、でも(群馬は)北じゃない」
姑はしつこく言ったっけなあ。
南でも神奈川県でも、箱根なんかは寒いでしょうよ。
群馬だって全て山の中じやないし、雪が降らない地域だってあるのよ、当たり前じゃん。
姑は私が群馬の山の中で、炭焼き小屋みたいな家に生まれ育ち、雪深い山道を長靴を履いて、生徒が3人くらいの分校に登校していたと思いたかったんだろう。
二言目には「田舎だからでしょ?」と言っていたっけね。
ふん、田舎は田舎だけど、その田舎町の30年前ですら、今の日吉よりはずっと「街」だったよ。
でも言っても仕方ない、何を言おうが何をしようが関係無く、ただひたすら姑は私が嫌いだったのだ。
だから何だろうが否定したいだけだったのだ。
それが良く解るようになったのは、姑が死んでからだった。
鈍いなあ、私。
同居なんか私から望んでしまったけど、姑にとってはいい迷惑だったのかも知れない。
引っ越して来た当日の対応で、その位解っても良さそうなものだった。
引っ越して来た直後の昼ですら、昼ご飯の心配すらしないなど、私だったら考えられない。
自分たちはうな重とって食べていたのにね・・・ちょっと驚いた。
その日の夜も同様だった。
私は引っ越し荷物が山積みの中、電気釜とお米を引っ張り出して、ご飯を炊いて塩のおにぎり作ったよ。
これから宜しくね!と、みんなで仲良く晩ご飯食べるかと思っていたけど、全然甘かったね、バカ嫁としては。
もし私に息子が居たら、その嫁には優しくしたいと思う。
だって大事な息子を生かすも殺すも嫁次第、息子に良くして貰いたいと思えば、嫁に良くするのが親心というものだろう。
残念ながら私達には息子も娘も居ないけれど、他人が我が家に来ていても、時分どきになればご飯の心配をするよ、私は。
それ位、当然のホスピタリティじゃん。
よほど嫌っていない限りはね。
私は夫の母親とは仲良くしたいと心から望んでいたし、嫌われているなんて考えたくも無かった。
まさかそれ程までに嫌われていたとは、あの時は気づかなかったし、気づこうともしなかったんだろうな。
複雑な想いに満ちた、あの10余年はもう取り戻せない。
今が極楽なのか、あの頃が地獄だったのか、どちらもその通りだろうな。
あんな状況の時に私達と共に生きたミュウたちには、本当に申し訳ない事をした。
同居なんかすべきではなかったのだ。
何を失敗してもあまり後悔はしないで生きて来たけれど、あの同居だけは悔やんでいる。
もっと距離を置いていれば良かったものを、好き好んで同居なんかした私は大バカ者だ。
でもね、言ってあげたい。
貴女の夫のオムツを替えたのは私ですよ、お義母様。
一度たりとも自分の夫の下の世話をしませんでしたね、貴女は。
死んでから泣いたってダメですよ、空々しい・・・と。
あの頃は言えなかったけれど、今なら言えるだろうな。
父の看病も出来なかったのに、舅の介護はさんざんして、私を愛してくれた母も死んで、もう恐い物なんか無いからね。
あっ、あとひとつだけ恐い物があった。
こうちゃんとの死別だ。
それを思えば、姑がどんなに意地悪したって全然怖くないよ、今は。
あの頃は何も口応えしなかったけれど、本当はその気になれば幾らでも言えたよ、一発で心臓を貫く言葉を。
もう子供じゃなかったから、同じ土俵に上がって喧嘩したくなくて、敢えて言わなかっただけよ。
それも節度であり常識であり克己心というものでしょう。
誰も彼もが姑のようにダイレクトに相手に毒を吐いていたら、人の心は優しさを失い、世の中はますます荒んでしまう。
きつい性格の母ですら、人には思いやりを持って話していたし、忍耐して呑み込んでいた事が多かったように思う。
母も姑で苦労したからね。
嫁として苦労した経験の無い姑とは違うのさ。
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子供の頃、雪合戦が出来る程に雪が積もったのは、たった1度だけだった。
それも僅か3センチ位の積雪で、雪の玉を作っても黒くて汚かったよ。
ましてや雪ダルマなんか作った事が無いし、通学途上で見た事が無い。
何故「通学途上」に限定かと言うと、通学以外は殆ど出歩かない子供だったからだ。
習い事もしていたけれど、その時だって家と目的地を真っ直ぐ行き来するだけの、つまらない子供だったな。
だって家にこもってする事が好きだったんだもの。
本(漫画である事も多い)を読むか、絵を描くか、ある程度の歳になるとピアノの練習も毎日何時間もしていたし、そもそも外に出るのは好きじゃなかったんだ。
お祖母ちゃんに「たまには外で遊んで来な」と玄関から追い出されて鍵を掛けられたけれど、そのまま勝手口に回って入ってしまう、そういう子供だった。
近所に歳の近い子供が居なかったせいもあるかも知れない。
居たとしても、小さな子供は乱暴だったり、デリカシーが無くて残酷だったり不愉快な事が多かったので、子供と遊んでも面白くなかったのだと思う。
幼稚園も苦痛で仕方なかった。
本当は、そういう想いを一杯して、世の中には自分とは違う価値観や感性を持つ他人が一杯居る事を覚え、心に免疫をつけるものなんだと思う。
だけど私はそういう免疫を充分つけずに大きくなってしまった気がする。
今更、そんな事に気づいても仕方ないね。
大きくなってからは、若干痛い思いをして、大分免疫がつきましたよ、流石にこの歳ですから。
冬は掘り炬燵から首だけ出して(中ではうつ伏せて腰を折り、教会で祈る時のように肘で上体を支えつつ跪いているんだけど、どういう姿勢か解るかなあ?)何時間でもそのまま本を読んだり、婦人誌の西洋料理の写真を見て、そのまま絵に描くのが好きだった。
それもメインの料理ではなくて、付け合わせとしてグリーンピースがびっしりと並んでいる様子が一番好きだった。
どうしてだろう、グリーンピースなんか当時の一般家庭の食卓には全く上がらなかったし、たまに店屋物の丼に幾つか飾りのように乗っているグリーンピースなんか味も無ければ変に固くて、美味しくも何とも無かったのに。
しかし、びっしりと皿に盛られたグリーンピースの写真は、その頃の私には魅惑的だったようだ。
そして、それを絵にしたくて堪らない衝動があったのだ。
自分の事ながら、子供の好みって不思議だ。
それがグリーンピースではなくて、スイートコーンの黄色い粒々でも良かったのだろうか。
解らないな、黄緑色が良かったのかも知れないし、小さな粒がたくさんみっしり並んでいるのが魅力だったのかも知れないけれど、あの時の自分の心は解らないんだ。
兎に角、かなり長い期間、グリーンピースの写真が好きだったね。
うんと小さい頃よ、多分3歳位の。
猫で言えば、ほんの仔猫だね。
まだ生後3~4ヶ月ほどの仔猫だったルスとリマは、大晦日に我が家にやって来た。
晩秋にはもう保護されていたから、岩手の冬本番は知らないんだよね。
それでも捨てられていた時、朝晩は寒かったのだろう、風邪をひいて4匹全員がほぼ仮死状態だったと聞いた。
生きていてくれて、うちの子になってくれて、そしてカワムラさんと家族になってくれて有り難う。
テトやペロを可愛がってくれて有り難う。
ママを大好きになってきれて有り難う。
お昼は焼きうどん。
半額の時間に買ってあった豚小間と昨日買って来たニラ、それから冷蔵庫に入っていたキムチと茹でうどんで簡単に作った。
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ニラ豚キムチ焼きうどん Nov. 4, 2014
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ニラは1杷にしておいたんだけど、炒めたらカサが減ってしまって、2杷使っても良かったな。
ニラ、人参、ピーマン、セロリ、クレソン、春菊・・・そういう香りの強い野菜が好きだなあ・・・せめて春菊でも育てようか、この冬。
「げんた」と「ステラ」、どうか宜しくお願い致します。
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