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2016年9月19日 月曜日 |
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台風16号、接近中。
私は浮腫みが酷い。
お天気は悪いけど、連日大洗濯。
ブラッシング出来ない猫の多い部屋では、毛布があっという間に毛だらけになる。
ま、毛布やマットがブラシ代わりだと思えば良い。
但し毛取りの洗濯はちょっと大変。
ブラッシング出来ていた子でも、今年は毛玉が出来る子が多かった。
年老いて来て、セルフグルーミングが減ったのだろうか。
少しずつ色々な変化が出て来るのが、老いるという事だ。
劇的な変化である場合もあるし。
猫の体調の異変に関しては、初めての事であれば勿論だけど、何度も経験しているにも拘わらず不安で怖い。
私には学習機能が欠落しているのだろうか。
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ナム ママったら相変わらずおバカさん
Sep. 19, 2016
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そんな事言わないでよね、ナムちゃん。
精一杯頑張ってるんだから、これでも。
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テト 僕の事ばっかりバカとか言ってたよね
Sep. 19, 2016
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違う、違う、テト君ばっかりじゃないよ。
ペロもチャボも、亡きトムもビルも、オスどもは大抵おバカじゃん。
でもね、親(のつもり)だから言えるだけなんだよ、我が子を「バカ」だなんてね。
バカだから嫌いなんて事はあり得ない、もの凄く愛してるという厳然たる事実があって初めて言っている事なんだから。
ま、ママもバカだし、おあいこだな。
仲良く老いて、仲良く暮らそう。
とりあえずブラッシングと爪切りだよ。
はいはい、嫌なのは解ってるけどね。
ママも頑張るからさ、テト君もナムちゃんも、嫌でも頑張ろうね。
そうだ、↑こう書いていて突然思い出した事がある。
子供の頃、ピアノの練習をしていて、なかなか上手く弾けない曲・・・それはバッハの「シンフォニア」だったんだけど・・・を練習していて、直ぐにサッと弾けないもどかしさに「うっ」と泣き出したいような気分になった。
バッハの曲というのは、ベートーベンのように左手は伴奏パート右手は旋律という成り立ちではなく、左でも右でも異なる旋律が同時進行して成り立っている。
右手と左手でそれぞれ別の旋律を弾かなければならない曲は「2声」といい、バッハの場合「インベンション」という。
2声ですら「伴奏+旋律」で成り立つ曲と比べたら難しいのに、これが3声となると困難さも格段に上がる。
考えても見て。
手は2本しかないのに、3つの異なる旋律を同時に弾くんだから、そりゃあ混乱するよね。
下の音の旋律は左手で、上の方の音の旋律は右手で、そして真ん中の旋律は右手で受け持ったり左手で受け持ったりしながら、結果的に3つの旋律が進行して行く。
初見では、なかなか弾きこなせるものではなかった。
バッハは《インベンションとシンフォニア》を、息子ヴィルヘルム・フリーデマンの音楽学習のために作曲した。
この作品についてバッハは、鍵盤楽器の初学者が多声をきれいに弾き分けられ、旋律を歌わせる事が出来るようになる事と、作曲の前段階として優れた曲想とその展開の仕方を覚えられるようになる事を目指して、これらの作品を作曲したと述べている。
そう聞くと、私の先生が私に《インベンションとシンフォニア》を練習の教材として与えたのは頷ける。
何年もずっとバッハばっかり。
《子供のバッハ》から始まって、《インベンション》そして《シンフォニア》。
渋いな、私のピアノの歴史。
でも正直言うと、私も他の人達のようにきらびやかで華やかな、誰もが知っているような曲を弾きたかったよ。
それは兎も角、結局は与えられた教材で練習する以外に、私には選択肢など思いもよらなかった。
天災でもなければ、独立心・自立心のある生徒ではなかったからだ。
左手だけを何十回、右手だけを何十回と練習して、他の事を考えていても弾ける位になると、両手で合わせて弾く。
それを繰り返してマスターしたんだ。
私はピアノの鍵盤の上の隅っこの方にマッチ棒を20本置いて、1回弾くとそれを反対側に移し・・・というのを繰り返して、何かい弾いたかを目視化していた。
そうする事で小さな達成感を味わい、それをご褒美として辛い練習をしたのだ(と今考えると思う)。
進行状態が目に見えるのが好きなんだな、昔から。
あの時のもどかしい「うっ」と泣き出したい気分というのは、子供じみた我儘な気持ちなのだと、子供だった頃ですら自覚はしていた。
泣いたところで誰にも助けて貰えない事なんだ(命にかかわる事じゃなし)。
弾ける人達というのは古今東西にたくさん居て、私が出来ないのは努力が足りないだけなんだ。
・・・という事を子供心にも解っていた。
私としては大変な努力をして1曲弾きこなせるようになっても、次の曲は、また1からやり直しだった。
1曲マスターしたらテクニックの目盛りがきちんと上がっていて、同等の難易度のものであれば今度は簡単に弾ける・・・というものではなかった。
だって別の旋律だから。
それをまた手だか脳だかに刻み込ませるまで弾く、その繰り返しをする以外になかったんだ。
勿論、私のイトコのケコちゃんのように、練習せずとも耳で聞いているだけで一発目で出来る人というのもいるんだろうけど、私は全くそうではなかった。
今ではよく曲がらない痛い指では、ピアノを弾くどころか綱引きも出来ない、車のハンドルもきちんと握れない。
ま、それもこれも歳月と老化と持病と運命なのだから、自然の事として受け入れるしかないと思っている。
でも、可愛かったね、「うっ」と泣き出したい気持ちと闘って練習していた少女の私。
そんな良い子が孫にいたら、しょっちゅうお小遣いあげちゃうよ。
まあ、私が欲しかったのはお小遣いではなかったけどね。
あの時の気持ちを、さっきふと思い出したという訳だ。
今、気を抜いたら「うっ」と泣き出して放り出したいような気分になる。
なんだ、子供の頃と変わらない・・・いや、子供の頃以下の我儘じゃん。
投げ出す事は出来ない、逃げられない、私の家族の事は私がやるしかない。
やるしかないのであれば、苦しんでやらずに、楽しく苦労しよう。
いつもそう思っていないと、いつも思い返さないと、いつも肝に銘じないと、バカだから直ぐに忘れ掛けて、また「うっ」と泣き出したくなる。
毎日ヘコタレて、毎日「頑張ろう」というところに持って行く。
堂々巡りの毎日だ。
しっかりしろよ、私。
隣の工事は、アナウンス無しでなし崩しに続いている。
知らせると約束していたのに、口先だけだったんだなあ。
でも珍しいよ、こんな事。
どこの業者も事前に必ず挨拶に来るか、知らせの手紙がポストに入っていたのに、よりによって隣の工事に限って、解体でも建設でも知らないうちに始めててる。
今日なんて、うちの玄関前の車寄せに無断で駐車していた。
そこは道路じゃなくて個人の敷地内なんだけどな、塀で囲まれてはいないけれど。
だけど、そういう事全てが常識的な範囲のエチケットとしてすべき事だったり、すべきではない事であるというだけなんだ。
相変わらず仮設トイレも設置しない。
何度言っても無駄だったから、もう何も言わない。
言ってやればストレスが減る性格じゃないし、むしろストレスが増すのが解るから。
お正月までには工事は終わるだろう。
そしたら今度は、新しい住人がやって来る。
どんな人だろうが、ちゃんとゴミ出しルールを守ってくれさえすれば、それだけで良い。
新しい住人が増える事で、反対隣の家が続けているいい加減なゴミ出しのような事態が増えさえしなければ、それだけで文句は無い。
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