2018年5月10日 木曜日 |
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今日もすっきりしないお天気で肌寒かった。
頭も身体もすっきりせず・・・あ、それはいつもの事か。
今朝、目覚める直前にゴマの夢を見ていた。
実際には存在しない場所だけど、夢では時々出て来る河辺の小径を、私はゴマを抱いて歩いていた。
道は長く続いていて、川から遠ざかったり、また川縁の土手の上に出たりする。
両側に空き家が並んでいたり、どこかの家の中を堂々と通り抜けて窓から出て歩き続けたり(これもレギュラーの夢なのだ、まるで「フェリックス」に出て来たバブーン君のように、それとも「嗚呼、花の応援団」の進々堂先輩のように、何か障害物があってもただひたすら真っすぐ突き進むのです」)。
その間もずっとゴマを抱いている。
道中の路地裏では、どこかのお婆さんの飼い猫だという三毛猫を発見し、ゴマとその三毛猫が鳴き交わす声も夢の中でちゃんと聞いていた。
ゴマが苦しくないように抱くのはどうすべきかなど、私は歩きながら色々と腐心している。
早く家に帰りたいのだ、ゴマを連れて。
家に戻る前に目覚めたけれど、抱いていたゴマの大きさ、重さ、身体や被毛の手触り、柔らかさなど、今もまざまざと蘇る。
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2015年のゴマ アタシは家にいるでしょ
May. 10 , 2017
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そうだね、ゴマ、時々姿を見掛ける気がする。
ほんの一瞬だけど、視界の隅でゴマがすうっと通り過ぎる。
確かに傍にいてくれるんだと信じているよ。
大袈裟な物言いをするけれど、ゴマは私の運命の猫なんだ。
ミュウもジャムも、アインもカワムラさんも・・・チャボに至るまで全ての猫たちが私にとって特別な猫で、いずれも誰が一番なんて言えない位に愛している。
だけど、ゴマは特別なのだと日増しに身に染みて感じる。
傍にいてくれると信じてはいても、ゴマの死が今しみじみと辛い。
繰り返し波が押し寄せては、また返す。
その繰り返しが10年くらい続いてからでないと、愛するものとの死別はすっかり腑に落ちて行かないようだ。
そしてゴマではなく、胡麻の和えもの・・・タラの芽の胡麻和えです。
実際には昨日作って食べ、写真も撮ってあったのに、長々と書いていて載せ忘れてしまった。
タラの芽の胡麻和えだなんて、贅沢にも程がある。
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タラの芽の胡麻和え May. 10 , 2017
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仄かに苦みのあるタラの芽。
美味しい・・・もしかしたら天婦羅よりも本来の味と香りが解り、最も美味しい食べ方かも知れない。
でも天婦羅もやめられないのです。
春はいいなあ・・・悲しい思い出もいっぱいだけど、それでも尚、春の芽吹きには希望がある。
そして美味しい。
ほろ苦い山菜の新芽たちは、初老の大人の郷愁の味かも知れない。
もっともっと苦くて良いかも、私の人生。
え~っと・・・自業自得なんだけど、胆石のある辺りがじくじく痛い。
のたうち回る程の激痛ではないので、全然我慢出来るんだけどね。
痛いところがあちこちあって鬱陶しい。
これからじめじめした長雨の季節になるし、梅雨時は浮腫みがマックスになるし、浮腫むと痛いんだよなあ・・・。
でも全てを有り難く受け入れよう。
生きていられるだけで運が良い。
幸せだし恵まれてるよね。
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夜廻り猫 1,2巻(3巻も出てるよ)
著者:深谷かほる |
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