2018年7月4日 水曜日 |
|
見たくないものを見てしまった時、どうすべきなのか。
生きている限り、常に試されているんだな、大袈裟に言えば「生き方」を。
今朝の5時過ぎ、お隣さんが捕獲機から茶トラの猫を逃がしている様子が、2階のトイレの窓から見えた。
猫は「シャーッ」と言いながらぶっ飛んで逃げて行った。
昨夜、午前2時前頃だったかな、またしても微かな鳴き声がお隣の玄関付近から聞こえたような気がした。
急いで夫に伝えようとしたのだけど、夫も昨夜は体調が悪く、身体を丸めて眠っていたので、無理やり起こさないでいた。
その後も気になって何度も様子を窺っていたのだけれど、シーンと静まり返っていたので、私の気のせいだったのかと無理にでも思う事にした。
でも、やっぱり目的とは違う猫が掛かっていたんだな。
そして、チェック出来ない状態の時に、お願いした通りに捕獲機を撤収していなかったのだ。
可哀想に、こんなに長時間恐ろしい思いをしていたんだ。
見張っていられない時は捕獲機を撤去する、他の猫が掛かったら動物病院に連れて行く事を、捕獲機貸し出しの際に夫からも私からも念を押した。
それが何故なのかという事も、しつこい位に。
だけど相手の心には届いていないという事か。
うちの捕獲機はもうお貸ししていないけれど、目の前で無責任なやり方をしているのを看過する事は出来ない。
庭に出ようとしていた夫に伝え、お隣に注意しに行って貰っだ。
お隣さんは、お嬢さんと交代で1時間おきに様子を見ていて、朝の4時にも「娘が見たけどいなかったと言っているんですよね」という事だそうで・・・。
誰が嘘を言っているのだろう。
どうして約束を守って貰えないのだろう。
私の人徳の無さ故なのだろうか。
私は、これからどうすべきなのだろう。
猫を脱走させたのは私ではないが、この私もこの件では神様に試されているのだと受け取るべきなのだろうか。
|
2014年のルス そうよ、いつだって試練よ
Jul. 4 2017
|
ルッちゃんはそう言うけれど、ママは色んな事に疲れたんだよ。
でも生きている限り、人を信じ、どんな困難の中にあっても希望を持ち、自分の信念に従って良心を貫く事を諦めてはいけないのだ。
それは単なる理想かも知れないけれど、理想を掲げる事をやめたら、あっと言う間に歯止め無く堕落して行く事だろう。
人は易きに流れるのだ。
そして出来ない事、しない事の言い訳には雄弁になる。
それは非情にみっともない真似だ。
完璧な事は出来ないとしても(それは出来ないさ)、それでも理想を目指そうとしなくてどうする。
という事で、しつこいとは思うが、考えるところをお隣さんの携帯にメールしておいた。
ちょっと余計な事だとは思ったけれど、昨夜2時前には捕獲されたらしき鳴き声を聞いていましたよ・・・とも付け加えた。
すると、午前8時頃にお嬢さんから電話が来た。
午前4時に見た時には本当にいなかったのだと言う。
2時頃に見た時はエサだけなくなっていたので新しいエサを付けたのだとも言った。
なので、それはその時点で既に何かが入ってエサを食べたという何よりの証拠ですよね?と私は言った。
エサだけ取られたという捕獲機は、愛護団体から借りたという「トマホーク」だ。
そうだ、トマホークの捕獲精度の低さが、ここでもまた露見した訳だ。
色々と使い比べた結果、最も精度の高いと経験的に判断した捕獲機をお貸ししたその晩に、タヌキを捕獲してしまったからなあ・・・皮肉な事よ。
あれ以来、再度お貸ししていないのだけど、「トマホーク」と「アニマルキャッチャー」の2種類を借りて使っていらっしゃる。
お嬢さんにも、置きっ放し捕獲のマイナス点を説明したのだけれど、捕獲機を貸してくれた「愛護団体の人からお母さんが言われた通りにしているので」と言った。
おっと、私はそういう言い訳が一番嫌いだ。
誰かに言われたからそうしているという弁解が、自分をどれほど貶めているかを知って戴きたい。
頭は何の為についているのか、ただの飾りではあるまい。
言われたようにするとしても、それでは誰が責任を持つのか。
お母さんにアドバイスをしてくれたという愛護団体なのか。
違うだろう。
おそらく団体の人もそうは言っていないと思うのだが、もし仮に愛護団体が1晩中置きっ放しで捕獲機を仕掛けろと言ったとしても、団体が結果について責任など取れるはずがない。
そして他の野良猫が捕まらない事に関して、団体だろうが個人だろうが、責任など取れない。
全ては取り返しがつかない大きな過ちなのだ。
脱走されるという過ちの上に、他の野良猫や動物を傷つけ、必要な捕獲をも妨げる要因を作ってしまうという過ちを重ねている事を恥じないとしたら、それはただの脳天パーだ。
そもそも責任をとるという事は何を意味するのか。
飼い猫を脱走させた飼い主にしか責任は無い。
望む結果を得るのと同時に、他に迷惑を掛けないという事が社会の中で生きる上での最低限守るべき大前提である。
電話でもしばらく話し、そして訪ねて行って続きを話した。
やはり顔を見せ合い、話をした方が良いと思ったから。
お隣が越して来てから確か9年も経つけれど、お嬢さんとは話した事は無かった。
上の娘ではなく、妹の方らしい。
大学2年生だという。
素直に話を聞くし、可愛らしい笑顔も出るようになっていた。
今まで、挨拶もしない子だったとは思えない。
脱走したチロちゃんが作ってくれた縁と言えそうだ。
話してみればいい子なんだと感じる。
人とは、ちゃんと向き合って話してみないと何も解らない・・・と改めて思う。
隣のお嬢さんも、それを感じてくれていると良いのだけれど。
そしてゴミ捨てのルールも、ゴミ捨ての担当らしいお嬢さんに、私から改めて教えて差し上げたい。
今日の「プラスチック包材」の資源ごみ回収日に、またしても分別していないゴミを混ぜていたからだ。
あくまでも商品の包材でなければこの分類に適合しないのだけど、その袋には幾つものプラスチック製品そのものや、メッシュパネルのような金属までが混入されていた。
例えばDVDやそのケースなどは、一般の燃やすゴミ、プラスチックのブラシとか使い捨て手袋なども一般ゴミ、スーパーのレジ袋もこれは特定の商品の包材ではないので一般ゴミである。
どういう原則で分別指定されているのかを理解すれば、難しい事ではない。
つまり、製品の包材だけを分別して特定の日に回収しているのだ。
どんなに綺麗でも、プラスチック製品そのものは、燃やす一般ゴミに分類されているのが横浜市の現状なのだ。
犯人特定の為に、袋を開けて中を良く見ると(見たくなどないけれど仕方ない)、キャットフードの袋があった。
この回収場所に出す7軒の中で、猫を飼っているのは我が家とお隣だけだ。
うちでなければ、お隣という事になる。
これで確定出来た。
そもそも出した時間帯からも、他所の5軒でない事は確かなのだし。
ゴミ捨てに関しては、これまでの数えきれないルール違反に懲りていればこそ、捨てる人の動向もそこから回収して行く業者の様子も良くチェックし把握している。
後ほど、お隣が帰って来てから声を掛け、立会いの下で分別し直して頂こうと思っていたのだけど、ゴミ回収業者は今回どうした事か、そのまま持って行った。
何なんだ、残して行ったり持って行ったり、いい加減なんだから。
しかし、困った事にヘルスメーターが残されている。
一体、何を考えてこういうものを包材の回収日に出すのか。
それが誰なのかは証拠が無いので解らない。
その後も、日に何度もメールでやりとりを続けていて、少しずつ人間関係は構築出来ているような気がする。
悪い面ばかりを見て人を判断しないで、良い部分を見なければ・・・・といつも思う。
人を信じるには、強さを持つ事が必要なのだ。
強くありたいと思う。
昨夜、眠れずに観ていた、BSのプレミアムカフェ選。
既に何度か見ている再放送だが、とても美しくて好きな番組のひとつだ。
【パリオートクチュール 華麗なる刺繍の競演 ~モードの世界に日本の風が吹いた~(初回放送:2002年)】
新進気鋭のデザイナー、S.ローランと京刺繍の第一人者、長艸敏明。
2人の匠の手仕事が作品に結実するまでに密着したドキュメンタリーである。
何度見ても素晴らしい若きフランス人デザイナーの発想とデザイン、それを具現化する妥協の無い日本人の技とプライド。
ため息の出るような美しい刺繍を施された、斬新な着物風の衣裳が感性した。
この赤い衣裳の他にも、白地に白い糸のグラディエーションで繊細な花々を刺した衣裳があるのだけれど、ショーで圧倒的に観客たちの目を引いたのは、この袖の部分に能面を大きく刺繍したものだろう。
|
これが糸だけで表現されている絵だとは信じ難い
|
|
|
モデルが着て観客を魅せる |
こんな芸術的なものは作れずとも、やっぱり手仕事をする職人になりたかったと今更思う。
でも、サラリーマンの子は余程のきっかけが何かない限り、サラリーマンしか仕事の選択肢を知らないのだ。
他に知る職業は、医者とかピアニストのように自分にとって手の届きそうにない能力や才能の求められる仕事か、あるいは何も知らずに少しだけ見下していた、ものを売る仕事とか職人仕事であったのだ。
なんと愚かな、奢り高ぶった子供だったんだろう。
今では勿論、仕事に貴賤はないと理解しているばかりか、手仕事の世界に限りなく憧れる。
染織などに関わる仕事であれば、身近にたくさんあったはずなのだ、当時の私の故郷では。
なのに、傲慢な子供だった私は作り手側を下に見て、それを買い求める側・使う側が上だという単純で愚かな考え方をしていたのだろう、おそらく。
恥ずかしい。
お陰で、サラリーマンでさんざん苦労し、何も軌跡を残せなかった。
サラリーマンが悪いとは言わないけれど、自営や職人が良かったなあ・・・と思う。
だけど職人になりたくても、今更もう間に合わない、今回の人生では。
残り時間が短か過ぎるし、持病で昔のようには手が動かない。
おっと・・・出来ない事・しようとしない事の言い訳に能弁になってはいけない。
要するに、もう今から奮起したり、血の滲むような努力をする程の熱意や意欲が無いという事だ。
志が低いのだ、私の馬鹿め。
|
|
|
|
|
|
|
|