今日はもう一つ考え違いを正しておきたいと思う。
先日、別の映画に関連して『真実の行方』でのE・ノートンだけを褒めた。記憶だけで書いたのと、話の繋がり上、そういう事になってしまったのだ。
実際、巧い若手だと思う。
しかし今日、改めビデオで見直してみて気づいた。ノートンよりも、主人公の弁護士を演ずるリチャード・ギアが断然上手い。
ノートンは、あの役柄で得をしているのも事実だ。むしろ改めて観てみると、あどけない顔に似合わず腕なんか鍛えられていて筋肉質で、ちょっとマイナスだと感じた。
リチャード・ギアは、正直言うとこれまで全く好きではなかった。どこが魅力的なのかも良く解からなかった。タイトルは忘れたが、悪徳警官の役を演っていた作品を見た時には、ああ、落ちぶれたもんだ・・・とまで感じたし、それがまるで「地」のように思えて嫌な俳優だとすら思った。
しかし『真実の行方』では、冒頭の辺りで傲慢に
(受け取られるのを恐れず)論じた「真実」論など見せかけで、実はかなり誠実で優しい奴なのではないかと直ぐに解かる。
この事に関して、殆どの映画評では全く反対の事を書いているのには驚いてしまう。みんなノートンばかりに気をとられて、主人公の弁護士マーティンがどういう人物像であるのかの読みが大変に浅いのだ。
見た目の役作りから言えば、細かい文字を見る時には律儀に老眼鏡をかけて年齢を匂わし、酔った時や困った時などに見せる素振りが、ところどころ一寸ずつジジむさい。甘い二枚目俳優から脱したのだぞ・・・と言わんばかりだ。
成る程、その演出は功を奏している。むしろ歳をとってからの方が渋くてずっと良くなったと感じさせる。何だ、こんなに正統派の素敵な役者だったんだ・・・と今更ながらに感じ、贔屓でなかった者が観ても、ちゃんとリチャード・ギアの魅力を観る事が出来る映画なのだから。
怒りや興奮を押し殺した時の、顎のエラのところが引き攣るように動くところとか、ヒステリックな反応を見せる昔の女に直対応はせず、善良そうで牧羊犬ような小さな目で諦めたように笑うところとか、大人の男の演技が光り、腹芸の上手いところを存分に見せていた。
そして何と言っても着ているものが素晴らしくいい。仕立てと生地が良いのが手に取るように解かる。取材の為に時々傍にいる記者の着ているスーツとは、明らかにモノが違う。
そういうスーツを着こなす体型がまた良い。若い頃の甘い二枚目ぶりより、哀愁漂う中年になってからの方が良くなった役者だ。そう、ゲーリー・クーパーのように。
そしてこの映画の中では、スーツという小道具がとても象徴的に使われる。
弁護士事務所の元警官の黒人助手に無茶な事をさせようとする時、「新しいスーツを買ってやるから」と言ってなだめる。
容疑者アーロンにも初対面でスーツのサイズを聞き、公判で陪審員に好印象を与えるべく柔らかい印象の茶のスーツを用意してやる。
アーロンから人格が入れ替わった
(という事にしておこう)ロイが、いつも仕立ての良いスーツを着ているマーティンに向かって毒づく。「そんなスーツ着てカッコつけやがって」と。
つまり、スーツが男たちの品性やステイタスを表し、且つ戦いの際の鎧にもなっているのだ。
しかし日本人の男が同じアルマーニのスーツを着ても、同じようにサマになるとは思えない。
我が夫は頭が小さくて手足が長く、日本人にしてはとてもスタイルが良いのだが、それでも貧弱な上半身にスーツを着ても、ここまではサマにならない。彼にはスーツを着た時の品の良さはダントツにあるが、男の色気はないからな。
カメラワークも大変良かった。
シカゴの冬のピンと冷たい空気が、画面の色に出ている。屋外の空気、室内の空気が肌に感じるような画面だ。
撮影は『レイジング・ブル』や『タクシー・ドライバー』のマイケル・チャップマン。下手をすると失敗に終わりがちなのだが、カット割が非常に多く、その結果無駄がなくてスピーディな場面転換に仕上がっており
(それは監督の編集の腕か)、ところどころで見せる俯瞰もダイナミックで必然性があり、そして屋外のシーンが何とも言えずシカゴ臭く
(行った事はないが)且つ端正な美しさだ。
冒頭、テャリティ基金のパーティー会場となるホテルは柱が多くて、格式ある古い建物である事が解かる。その会場のシーンでは、後の法定で裁判官を務める女性判事がかなり酒好きである事も伏線として描かれている。行き届いているのだ、細部まで。
しかし一番良かったのは、挿入歌だろう。圧倒された。
(ホルトガルの)ファドの歌姫・ドゥルス・ポンテスの歌声が、ただのBGMとして流れるのではなく、その後繰り返される必然がちゃんとドラマの中に最初に仕込まれている。
そういう脚本の細部も見事だ。きちんと細かい要素が積み上げられて、非常にきっちりとした構図が広がる。
原作の良さは勿論あるだろうが、映画的手法がいちいち心憎いばかりに成功していると感じる。
結果としては、この映画はE・ノートンの怪演なしでも素晴らしく映画的に傑作だと思う。
1度目には、ストーリーに目くらましかけられてしまって細部のディーテイルには気づかなかった。2度、3度と細部を味わうに足りる映画だった。
ドゥルス・ポンテスの歌を聴くだけでも、或いはリチャード・ギアのスーツを見るだけでも、この映画を観る価値ありと言っておこう。
余談になるが、この作品を「目立ちたがりで自分勝手な弁護士で、そのため最後にしっぺ返しを受けるという因果応報の物語と見るべきだろう」と評しているサイトがあるのには驚いた。表面的なものしか見えない映画好きがいるものだ。
野心家で金と名声ばかりを求めているかの如く振る舞い、またそう評価されている辣腕弁護士が、実は全ての人間の中に「善」は在ると信じており、何よりも自分にそれを求めている事が酔った勢いでついポロリと打ち明けられる酒場のシーンをどう見るか・・・。
そこでの演技をどう捉えるのか。
彼は酔った勢いで記者に本音を打ち明けた。
「検事局にいた時、仕事で不正を行った。信念を裏切った自分を許せず、検事局を辞めて弁護士になった。世間はどうせ嘘つき扱い。だが自分には固く心に誓った。そして実行して来た。”仕事で良心を汚すまい”と」そして微笑んで目配せして言った。「記事にしたら訴えるぞ」と。
但し、この最後の台詞は吹き替え版と字幕スーパーとでは逆の意味になっており、原語でどう言っているのか何度も巻き直して聴き取ってみた。
" I will reserve my lies
for the rest of my public life."と聞こえるのだが・・・それで正しいとしたら、吹き替え版に於いて「仕事でしか嘘をつかない事にした」と訳したのは間違いではないのか。
それにしても、ストーリーのうわべだけしか追わない・理解出来ない映画ファンもいるものだと呆れる。「悪徳弁護士」などという表現をしている素人映画批評家もいて、単純で語彙の少ない不適切な表現にはうんざりする。
悪徳なところは作品の中では一切無い。自分で自分を「敏腕弁護士」であると言った程度だ。
彼が本当に善意の弁護士だったからこそ、州検察長官に忌み嫌われているヒスパニック社会の顔役
(別件での依頼人)が多分その長官に消された時も、その暗黒外の依頼人が実に弱者の味方であり善意の人間である事を知っている弁護士は友を失った悲しみに打ちのめされる。
そして法定で州検察長官に復讐する、その友情が解からないのだろうか。
だからこそ観終わった後、ノートン延ずるアーロン青年に善意の弁護士がまんまと騙された事が、何とも後味の悪さをもたらすのだ。彼は本当に善意の弁護士だったよ、終始。
それだけに、信じたものに裏切られた悲哀のうちに終わるエンディングにかぶさるドゥルス・ポンテスの歌、そしてエンドロールには「レクイエム」の「涙の日」が流れ・・・何と切ない事よ。
あの歌声は、いつまでも耳に残っている。
(>>ここで聴けます)