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2016年7月6日 水曜日 |
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昨日は遂に涼しいままだった。
けれど今日は陽が出たので、そこそこ暑くなった。
今日も解体工事の騒音と振動の中、365日少しも変わらない営みを繰り返している。
ただひとつ、ゴマの介護が無いだけだ。
あまりに長く介護していたので、眠っていてふと目が覚めた時に、ゴマにオシッコさせなきゃ!と焦る。
そして我に返り、現実をすっかり把握するまでにしばし戸惑う。
そうか、ゴマはもういないんだっけな。
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メラオ アタシ誰かに似てるの?
Jul. 6, 2016
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メラ 嫌ねえ、似てないわよ
Jul. 6, 2016
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いいえ、貴女たちは似てますって。
あんまり似てない写真を並べたけどね。
いいじゃん、メラちゃん、同じ部屋じゃないんだし、そっくりさんがいても。
それにしてもメラオは先住猫たちとすっかり仲良しで、ホントに良かった。
メラオも私達も嬉しいよね。
昨日、不思議な事があった。
夜、ダイニングのドアを開けて、あっちの部屋に行こうとしたら、ドアをすり抜けて小柄な猫が走って行った。
あ~、またアンちゃんたら・・・と思ったのだけど、あっちの部屋を見てもどこにもアンちゃんは居ない。
ダイニングに戻ると、アンちゃんは椅子の上でぐっすり眠っていた。
そう言えば足元を掛けて行ったのは、アンちゃんみたいに真っ黒じゃなくて、もっとグレーに近い明るい毛色だったよな。
そうか、アインだったのか。
いつもそうしていたように、アインがドアを開けた隙にちゃっかりすり抜けて、あっちの部屋に喜び勇んで走って行ったんだな。
その話をさっきこうちゃんにしてみた。
すると、こうちゃんもつい先日、全く同じ事があったと打ち明けた。
キッチンに居ても、時々足元にふっと猫が触れたような気配を感じる。
アインもちゃんとここに居るんだね・・・と二人で話した。
話した途端、涙が出た。
まだダメだ。
もう少し時間が過ぎるのを、ひたすら待つしかない。
しかしアインも、里子に出したミュウとアインの仔猫が死んだ時、まだ私もその事を知らないのに、矢鱈と仔猫を探して廊下で鳴いたっけ。
私は私で、昼寝していたら、パタパタパタ・・・と仔猫が駆け抜ける音と気配を感じて、走って行った方を見ると誰もいない。
手元に残したジーコは、ミュウの懐で眠って居たし、アインも離れたところで寝て居る。
あれは仔猫がパパとママの元に戻って来ていたのだろうか。
もう26年も前の事。
ついでに言い訳すれば、まだ野良猫と出会う前、野良猫の保護やら避妊やら自分がする事になるとは考えもしなかった頃で、1度だけアインに子供を産ませた時の話。
今では勿論、自家繁殖などしない。
仔猫を取り上げたのは、アインとゴマのケースだけだ。
勿論、仔猫は無条件に可愛い。
また育てたくもなる位に可愛いけれど、だからと言ってわざわざ仔猫を貰い受ける事はしないだろう。
子犬だって可愛い。
テレビで豆柴の「豆助」を見る度に、飼いたくなる。
これは17代目の豆助です。
直ぐに大きくなっちゃうから、どんどん交代しているのね。
ああ、堪らない。
シーズーもおとなしいお婆さんみたいで可愛いけど、豆柴も可愛い。
あと20年若かったら、犬も飼ってると思うわ、私たち。
昨日発見した憂鬱な問題というのは、こういう事だ。
出掛けようとして玄関先まで出ると、家の前の道路のアスファルトが何ヵ所か削れたり掘れたりしていた。
掘れた場所の周囲には、泥が一杯こびりついている。
これは間違いなく、向かいの解体で使用されていたキャタピラがつけた泥と傷だ。
そもそも泥なんか剥き出しになっているのは、解体現場の敷地内しか無いので、通行する車がこれほど大量に付着させて行く事はあり得ない。
しかもここの区画に用事がある車しか、ここの路地裏までは入って来ないから、極めて車の通行量が少ないのだ。
一昨日の夕方、重機での作業が終わったらしく、キャタピラを道路まで降ろし、トラックに積んで行った。
だから昨日はもう重機も解体ゴミも一切見当たらず、作業員も来なかった。
一旦、解体の作業は終わったようだ。
騒音と振動は我慢するしか無いけれど、私道のアスファルトを剥がされては困る。
一旦崩れたアスファルトというヤツは、最初は小さな穴でも車が通る度にその傷にタイヤが引っ掛かり、どんどん掘り進む。
大きな穴が開くまでには、それ程時間が掛からないものなのだ。
何年か前、隣のアパートの解体と戸建て住宅を新築する際、我が家の玄関前駐車スペースに工事車両を停めさせてあげていた。
それがご近所として親切な事だとも思っていたし、毎日路上駐車されていると、いちいち車が通る度にクラクションを鳴らされたり、我が家も車を出すのに退けて貰ったりと、不便極まりないからだ。
いっそ気持ち良く、どうぞうちの前にお停め下さいと言ってあげた方が良いと思っていたんだ。
だからご近所に来た車が路上駐車する場合は、どこのお宅の事であれ、どうぞここにお停め下さいと言っていた。
でもあんな事になるとは・・・。
アパートの取り壊しは普通の家より工事期間が長かったので、うちの玄関前には長い間、工事車両が停められる事となった。
その上、ドライバーも慣れない狭い路地に出入りするのに何度も大型車が切り返すものだから、タイヤがアスファルトをすっかり掘ってしまった。
その車両の出入りだけで、アスファルトの下の土が広範囲にむき出しになってしまったのだ。
それを補修して貰うにあたってはかなり嫌な思いをしたので、今回もその苦情の申し立てをしなければならない事がとても憂鬱だった。
でも、最低限の補修はして貰わないと困る。
あまり時間が経過してからでは、証拠も消えてしまうだろう。
今ならば、アスファルトの掘れた周囲には、キャタピラの痕が泥によってハッキリと残されている。
という事で、昨日、電話して事の次第を話した。
すると、明日、伺って検証してみます・・・という返事だった。
私は、一応言うだけは言ってみたものの、遠く南足柄から来ていた業者のようだったし、費用の掛かる補修などしないだろうな・・・と思うと気持ちが暗くなった。
他にも思うに任せない不測の出来事が偶発的に幾つか立て続けに起きて、どんどん気が滅入って行った。
何なんだ、この好ましくない事態が続発するというのは。
それはゴマの死が始まりだった。
そう言えば、解体工事の初日にゴマは死んだのだ。
そんな事に、因果関係など無いだろう(少しはあるかも知れないけれど、立証出来ないような微妙なものだ)。
だけど、そんな風にイモヅル式に悪い事ばかり掘り起こし、悪い方向へ考えてしまうようなアブナイ精神状態になっていたのだろう。
そのままどんどん「鬱」へと突入して、そこから簡単には這い上がれなくなるのか。
本当の鬱病だったら、自分で努力しただけでどうにかなるものではないと言われそうだが、それは経験して知っている事だ。
そして鬱病の人が、実際とても苦しんでいる事も理解している。
その上で言うのだけれど、今の私は鬱になっていられる事が許される立場や状況ではないのだ。
だから鬱でも働くしかないし、無理にでも明るい方を向いて、嘘でも「頑張ろう」で一日を締め括りたい。
そういう積み重ねと克己しようとする努力によってしか、自分への信頼は戻らない事も経験的に知っている。
薬でも他人の励ましでも、生きる意欲が戻らない事も。
死ぬ訳にはいかないという大前提の下、どんなに苦しくとも頑張る事しか思いつかない。
弱虫で怠け者だから全くもって頑張りたくなんかないのだけれど、頑張るしかないのだとしたら、頑張るよ、ダメな私でも。
だけどこの30数年の間には、頑張れそうも無くてどうしようもない時もあった。
しかし、そんな水底からは、自分の努力でしか浮き上がって呼吸出来ないという事も知ったんだ。
それは紛れもない事実だった。
あそこまで苦しいのは真っ平だから、そうなる前に防衛策をとる。
その策が「明るく頑張る」というポーズなのではないかな。
無理をしてまで頑張ろうとするから、それがむしろいけないのではないか?・・・などと言う人もいる。
あのね、私はね、甘えていられると思って安心したら、とことん甘えて、生きる力を自力で保てなくなってしまいそうで、それが怖いの。
そういう自分を嫌いになり、生きる自信を失い、とことん精神状態が落ちて、墜ちて、そんな自分が生きている事が許せなくなる。
いや、そんなカッコ良い物ではない。
逃げたくなるのだ、おそらく「死」という形で。
それはもう、もの凄く不幸な事でしょう。
自分を不幸にするのはやっぱり自分なのだと思い知る。
同じ状況でも幸せになれるかどうかは、自分の気持ち次第なんだ。
不幸な人は他人に気を遣わせる。
今の私は、他人に気を使って貰わないとならない程には不幸ではない。
幸せな人は人に気を遣わせないし、人の幸せを願う余裕がある。
だから私は、自分をもっと幸せに出来るように頑張るよ。
残り少ない人生だろうけど、兎に角、頑張る。
大切に思ってくれる人達や、守ってやらないと生きて行けない猫たちの為に、ぼちぼち生きていられるだけでも良いから、生きて何かマシな事が出来るよう、とりあえず頑張る気持ちだけは持ち続ける。
バカみたいだけど、頑張ると言うしかない、頑張るしかないんだ、これと言って何も出来ない私には。
そして今日になった。
約束通り、解体業者がやって来た。
最初は、一緒に来た職人さんがとても固い表情をしていた。
しかし営業の人はこちらの説明を聞き、納得してくれたようだった。
結論としては、アスファルト全体を敷き直す事は出来ないけれど、削れている部分だけを埋める形で補修させて戴きますという事になった。
最小限度の範囲を補修しただけなので、どれほどの効果があるのかは解らないけれど、精一杯の誠実さを示してくれたと思う。
道は、宅配のトラックやゴミ収集車、工事車両などで、今後またどんどん傷むだろう。
早くも、大きく削れてしまった場所もある。
大きなベニヤ板をガレージから引っ張り出して来て、固まるまでの間しばらく敷いておこうという事になった。
それでもクランクを曲がる車のタイヤは、やがてベニヤ板を退けた後はそこをまた掘って行くだろう。
カーブの上り坂で、タイヤを空回りさせる車が多いのだ。
そして一旦傷ついた道というのは、そういう運命なんだと諦めるしかないのかも知れない。
削れたアスファルトの小石は、どんどんうちのガレージ前に集まる。
枯葉を掃除すると、半分は小石だ。
ウンザリする。
でも、この件はこれでおしまい。
私は、10年後を目指して、このエリアを出て行くつもりだし。
朝まではまだ気持ちが滅入っていた。
だけど解体業者の営業のオジサンの誠意が嬉しくて、気持ちが深い水底まで落ちる前に浮き上がったような気がする。
人は誠実でないとダメだと改めて思った。
私も誠実であろうと改めて思う。
自分の弱さに完全に負けてしまわず、ほんの少し残っている元気で、誠実に行動しよう。
もしかしたら私のする事で人が落ち込んだり、少しだけでも救われたりする事もあるのだと気付くべきなんだ。
人は被害者になるだけではない、加害者にもなり得る。
それも無自覚でなる事だってあるのだ。
気をつけよう。
誰とも関わらずに生きる事なんか出来ないのだと、ほぼ隠遁生活に近い私達でもそれは痛切に感じる。
誰の力も借りないで生きているつもりになっていたとしてら、それは奢りだ。
気付いていないだけで、たくさんの力に支えられたり、お世話になっている。
我が家の前の電柱に取り付けられた街灯だって、切れたら取り替えてくれている人がいるのだ。
雨が降っても泥でベタベタにならずに歩けるのは、道路がみんなの払った税金で舗装されているからだし、工事してくれた人たちがいるからだ。
だから税金を払うばかりで何の恩恵にも浴していないなどと言う人がいると、それは違うよ・・・と言いたくなる。
感謝して生きる方が、不満を持って生きるよりも幸せで楽しい。
何度も言うけど、私たちは幸せになる「権利」じゃなくて「責任」があるんだ。
幸せになって、ほんの少しでも社会の役に立とう。
そして楽しく生きよう。
ゴマは死んだけど、ゴマは私の中にいる。
いつまでも悲しんでいたら、生きている他の猫たちに失礼だ。
頑張ろう、猫たちの為に。
そしてそれが自分の為なのだから。
泣いたり笑ったり、まったく忙しいね、生きていると。
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